第26話 親知らずを抜くという恐怖体験 手術編

 病院での診察は待たされるものという認識を持っていたが、親知らずを抜く手術の準備は速やかに行われた。あれこれ考える間もなく、手術台? のような場所に横たわる。


「では、麻酔をしますね。少し痛みますよ」


 そう言って医者が歯ぐきに、注射針らしきものを突き立ててきた。確かに痛かったが、これから行われることを考えると大した苦痛ではない。むしろ、多少痛くてもいいからしっかり麻酔を効かせて欲しい気分である。しばらくすると、頬の内側の感覚が無くなってきた気がした。医者が何やら触れてきて、麻酔が効いたことを確認して手術開始となった。


 麻酔が効いているからきっと大丈夫だろう、私はそう自分に言い聞かせた。さきほど聞いた、抜歯の方法については忘れることにする。

 当たり前のことだが麻酔はきちんと効いていた。ところが、全く何も感じないというわけでもないのである。手術が始まると、親知らずのあたりを強く押されるような感覚があった。しばらくすると、ゴシゴシと何やら擦っているような感じである。痛みは無いのだが、一体何が行われているのか想像すると恐ろしい。ちらっと医者の手元を見てみようかな、と思ったが見たら後悔しそうなのでやめておいた。



 それなりの時間が経過したように思うのだが、手術はなかなか終わらない。痛みは無いが、余計なことを想像して精神的に疲弊してしまう。手術をしている医者も大変そうで、看護師の女性が甲斐甲斐しくサポートしていた。


「……を」


 不意に医者が何かの名前を口にした。はっきりと聞き取れなかったが、工具のような響きだった気がする。聞き取れなかったのではなく、理解したくなかったのかもしれない。私の認識では、人間に対して使う道具ではないような。


「はい」


 看護師の女性が、医者にスッと何かを手渡した。息のあった連携である。だが、私の不安と恐怖は増すばかりだった。何かしら作業が始まったようだが、私は自分の口内のことを頭から追い出して別のことを考えることにした。



 まず、美味しい食べ物のことでも考えようとしたが、手術が終わってもしばらくは固いものが食べられないことに気づいてやめる。ここは現実から離れた方が良いだろう、と趣味のミステリー小説のことを考えることにした。密室の謎とか、あのトリックは実現可能なのか、などを考えての現実逃避である。

 

 最初は上手くいっていたのだが、不意に「浅すぎた麻酔」というフレーズが頭に浮かんだ。元ネタは、エドガー・アラン・ポーの「早すぎた埋葬」である。

 あらすじを軽く紹介しておくと、これは生きながら埋葬されることを怖れる人の物語である。確か、主人公は特異体質か持病があって、仮死状態のまま勘違いされて埋葬されることを日頃から怖がっていた、というような設定だったと思う。

 現在だと青空文庫などで読めると思うので、興味のある方は読んでみると良いだろう(このエッセイより面白いのは確実である)。


 とにかく、手術中の私の頭に浮かんだのは、もし麻酔が急に切れたらどうなるのだろうという恐怖である。もし、医者が加減を間違えたとか、私が特異体質で麻酔の効果が早く消えるとかだったりしたら。

 普通に考えれば医者は有能そうだし、私は平凡な人間だから、そんなことがあるはずがないのである。だが、浮かんだ疑念はなかなか消えなかった。まさか、こんなところで「早すぎた埋葬」のような恐怖を味わうことになろうとは。


 相変わらず、私の口の中では何やら激しい作業が行われている。麻酔がなかったら、どんなことになるか想像するだけで恐ろしい。とにかく、この状態の私にできることは医者を信頼することだけであった。医者になるのは難しいし、この大きな病院で勤務するのも大変なはずなのだ。ダメ学生の私があれこれ心配しなくても問題はない、きっとうまくやってくれるはずなのである。 

 最終的に私が行き着いた境地は、医者と麻酔を信じることであった。



 長く感じた抜歯ではあったが、終わるときはあっさりだった。医者が手を止めたので、休憩かなと思ったら手術が終わっていたのである。私は、荒れた海でボートにつかまったまま漂流した人のように疲弊していた。医者が抜いた歯を見せてくれたが、これは苦労しただろうな、と思えるような状態である。抜く過程を想像すると恐ろしくなりそうだったので、深くは考えないことにして医者にお礼を言ったのだった。


 こうして手術は無事に終わったのだが、思い返してみれば痛みは全くなかった。痛かったのは最初の麻酔と、術後に麻酔が切れてからのことである。どうやら、友人から余計な話を聞いたせいで無駄に怯えてしまったようだ。友人の話より、医者の腕前を信じればよかったのである。人間の想像力というのも、時にはやっかいものになるということだろうか。 



 もはや、何のエッセイかよくわからなくなってしまったが、歯医者には早く行くことをおすすめします。あと、エドガー・アラン・ポーの「早すぎた埋葬」は面白いですよ。

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