第25話 親知らずを抜くという恐怖体験 受診編
私が大学生だった頃の話である。
男友達の一人が、医療系の学校に通う女の子と交際することになった。その彼は、彼女とのあれこれについて、清く孤高に生きていた私に自慢気に語ってきたものである。そんな中に、歯を抜く話があった。
「いやー、彼女に聞いたんだけどさあ。歯の親知らずを抜くのって、本当にすごいらしいぜ。まるで口の中で土木工事してるみたいで、一度それを見たら、自分は絶対に嫌だって思うらしい」
この不吉な話を、友人はにやにやと実に幸せそうな顔で語った。彼女はとても魅力的な女性であるらしい。私は、あまり興味がないフリをして話を聞いていた。内心は羨ましくて仕方がなかったが。
数ヶ月後、私に彼女はできなかったが、よりによって親知らずを抜くことになってしまったのだった。
ある日、普段通っている歯医者から「うちでは抜けないから、大きな病院へ行ってね」と言われてしまったのである。恐る恐る理由を聞いてみると、親知らずが斜めに生えており抜歯が困難なのだという。歯医者は、大きな病院への紹介状を書いてくれたのだが、私は
外へ出た私は、離れたところにある大きな病院へと、とぼとぼと歩いたのだった。歯医者さんが親切に紹介状を書いてくれたのだから、早めに行っておこうと思ったのである。
途中、地元では「出る」と噂の廃ビルのそばを通りかかったが、何も感じなかった。親知らずを抜く、ということに比べれば幽霊など大した存在ではない。そのときの私には、誰も居ないはずの廃ビルの窓に白い影が見えたりするよりも、白衣を着た医者の方がよほど恐ろしかった。
余談だが、麻酔が発明されていない時代の歯科治療は、恐怖と苦痛に満ちたものだったらしい。当時、歯が痛くて困っていた人が、歯医者の姿を見るなり歯の痛みが気にならなくなったという小話が残っているぐらいだ。この話を思い出した私は、一層憂鬱な気分になったのだった。
大きな病院は、そこそこ混雑していた。病院は、どこに行っても待たされるものである。特に今回は予約すらしていない。これなら初回は紹介状を見せて次回の診察日を決めるだけになるだろう、私は少しほっとして受付に向かったのだった。
ところが、ちょっと待っただけで診察室に案内されてしまったのである。心構えのできてなかった私は動揺したが、おそらく歯の様子を確認するのだろう、と自分を落ち着かせた。紹介状持参だったから優遇してくれたのかもしれない。
あれこれ検査をしたあと、医者が口を開いた。
「この親知らずの抜歯は手術扱いになりますので、同意書にサインをしていただくことになります。手術の内容についてはこれから説明しますね」
思いもよらぬ言葉に、私は戸惑った。これはどういうことなのか、今日は患部を見るだけなのではないのか。挙動不審になる私に対して、医者は若くて有能そうな人だった。おまけに、そばに居た看護師の女性もとてもきれいな人である。私は、みっともないところを見せたくないと、できるだけ平静を装うことにした(無駄だったと思うが)。
「親知らずなんですが、虫歯になっている上に斜めに生えていて、このままだと歯並びが悪くなってしまいます。ですから、早めの処置をおすすめしますね」
「そ、そうですか、ではお願いします。ええと、し、手術というのは……」
内心でビクビクしながら医者の話を聞く。
「手術なんですが、まずは親知らずの歯ぐきから出ている上の部分を切断します。次に、埋まっている部分を分割して取り除くことになります。取り除くことが困難な場合は、歯ぐきを切開しなければなりませんね」
「……」
私は、医者の言葉がよく理解できなかった。いや、理解したくなかったというところだろうか。切断とか歯を分割とか、歯ぐきを切開など、それが自分の口内で起こるとは信じたくなかった。だが、この場に居る患者は私だけである。
正直なところ、手術同意書のサインをしたくはなかった。しかし、それで問題が解決するわけではない。むしろ、将来の手術に怯えながら生活する羽目になってしまうのである。それに、看護師の女性は美人であった。
「で、では、お願いします。……放置しておいても治るものではないですし、早い方がいいですよね」
できるだけ毅然とした態度だったつもりだが、実際はかなり腰が引けていただろう。手術に怯えながらも、きれいな女性の前で見栄を張りたいという、当時の私は若かったのである。
こうして、親知らずを抜くという手術の準備はトントン拍子に進んでいったのだった。
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