第12話 トイレで起こった危機的状況
人生というのは、思わぬところに落とし穴があったりする。
平和な日々だなあと安心しきっていたら、持っていた株が暴落したり、付き合っていた相手から「元カレとよりが戻ったからゴメンね」などと言われたりして、地獄に突き落とされるような気分を味わうかもしれない。
そんな中で、誰にでも起こり得るものとしては「トイレの紙がない」というシチュエーションがあげられるだろう。他人からすれば笑い話かもしれないが、当事者からすると人間の尊厳に関わる切実な事態なのである。幸いにして、私はその状況に陥ったことはないが、想像すると嫌な汗が浮かんできそうである。はっきり言って、どんなトイレの怪談よりも恐ろしいと思う。
とはいえ、実際にそういう状況に陥ることは少なくなったのではないだろうか。昔は、公園のトイレや田舎の観光地だと、トイレットペーパーが設置されていない、ということがあった。しかしながら、最近はどこのトイレも清潔になり、トイレットペーパーも豊富に置かれているような印象を受ける。大したことではないのかもしれないが、ありがたいことだと思う。
ところが、そうやって油断していると、危機というのは思わぬところからやってくるのである。
ある休日の午後のことだった。私は某大型電気店に買い物に来ていたのだが、ふとトイレに行きたくなったのである。個室の中に設置されていたのは、古いタイプの温水洗浄便座であった。もちろん、きれいに清掃されていてトイレットペーパーはたくさん用意されている。
ところで、このエッセイを書いていて気付いたのだが、「ウォシュレット」や「シャワートイレ」というのは登録された商標なのだそうだ。なので、この手のトイレを表現するには温水洗浄便座と書くのが正しいようである。ちなみに、このときのトイレはどこのメーカーのものかは覚えていない。
用を済ませた私は、壁にある温水洗浄便座の操作パネルを押した。きちんと温水が出て快適である。
ちなみに、開発したメーカーは、何とは言わないが角度とか勢い、位置などを決めるのに大変苦労したそうだ。一説には、社員にお願いしてデータを取ったと言われている。
そんなことを考えながら、私は操作パネルの停止ボタンを押した。ところが、温水は出たままである。接触が悪いのかな、そう思った私は再度ボタンを押した。だが、反応はない。
このときは、まだ私は焦っていなかった。深くは考えずに、もう一度停止ボタンを長押ししてみる。だが、水の勢いに変化はない。首をかしげつつ、今度は洗浄ボタンを押し直してみた。これも、効果はない。
あれこれ操作パネルをさわっているうちに、水がだんだんと冷たくなってきた。ここに至って、私は自分がマズイ状況にいることに気づいたのである。
私が直面している問題はシンプルであった。それは温水洗浄便座の水が止まらないということだ。単純ではあるが、操作パネルが反応しないので打てる手は限られている。
もう一度、操作パネルを確認してみた。壁に取り付けれたパネルは大きさのわりにボタンが少なく、洗浄と停止、あとは水量調節ぐらいしかない。そして、再度ボタンを押しても、やはり反応しないのである。
お尻が冷たくなってきたのを感じながら、私は自分に落ち着けと言い聞かせた。まだ、打つ手はあるはずなのである。
世の中の工業製品というのは、安全性を重視して設計されているものがほとんどである。だから、こういった事態にも対応している可能性が高い。例えば、便座にセンサーがあって、人間が座っていないときには水が出ないように設計されているのではないだろうか。だとすれば、あれこれ考えずに立ち上がれば水は止まるはずである。
私は身体をひねって、センサーらしきものがないか確認してみたが、どうもそれらしいものは見当たらない。
水が冷たいなあ、と思いながら私は頭を働かせた。見えないけれど、センサーがあって水が停止すれば問題ない。だが、停止しなかった場合はどうなるだろう。私は、トイレの個室でずぶ濡れになった中年男性が、哀れな様子で店員に助けを求める姿を想像して、立ち上がることを思いとどまったのだった。
次に思いついたのは、温水洗浄便座の電源を切ってしまうことである。ボタンが反応しないなら、本体の電源を落としてしまおうというわけだ。私は、便座本体にスイッチがないか探してみた。しかし、座ったまま確認できる範囲にそれらしいものはない。
ならば、電源コードを引っこ抜いてしまうのはどうだろうか。トイレを見渡してみたが、これも見当たらない。どうやら便座の後方にあるようだが、座ったままでは手が届かないようである。
『まだあわてるような時間じゃない』
私は、某漫画の有名なセリフを思い出しながら頭を働かせた。この状況から、何とか人間としての尊厳を保ちつつ危機を脱する方法があるはずなのである。お尻はかなり冷たくなったが、まだ我慢できないほどではない。
もう一度、社会人としての経験からこの事態を解決する方法を考えてみることにした。温水洗浄便座の操作パネルが反応しないという事態を、設計者は当然想定して作っているのではないだろうか。だから、便座に座ったままの状態で水を止める方法があるはずなのだ。
私はトイレを見回したあと、再び壁の操作パネルに注目した。パネルは大きさのわりにボタンは少ない。ボタンはパネルの上の方に固まっていて、下側はスペースが余っているような気がする。私は、パネルの側面を指で探ってみることにした。指をはわせてみると、何かひっかかりがある。
そのまま引っ張ってみると、操作パネルの下半分が開き、中には細かいスイッチなどが設置されていたのだった。
おそらく細かな設定を行うためのものなのだろう、省エネ設定とか温度などの文字が書かれている。その中に電源スイッチがあったので、私はそれを「切」に合わせたのだった。
こうして、私は温水洗浄便座の水が止まらないという危機から無事に脱出することができたのである。
その後、操作パネルが反応しないことを店のスタッフに言っておこうと思ったのだけれど、電源を入れ直すと何故か直ってしまった。さきほどまでの事態が嘘のように、停止ボタンはきちんと反応する。電源を入れ直すと不具合が直る、という謎の現象は温水洗浄便座でも発生するようだ。
もはや、何の話かよくわからなくなったが、皆様もお気をつけ下さい。
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