第3話 夜勤
仕事で夜勤をするようになったのはいつからだっただろうか? 40歳になって、ちょっとした頃に転職をしたのだが、その時だったような気がする、
前の仕事とは、少し違う仕事だったが、前の仕事は、プログラマからのSEという、
「システム開発の王道」
といってもよかった。
転職してからは、同じシステム関係であったが、業務関係を請け負う仕事で、月末締め処理などの業務を、会社が委託ということで、その会社の業務全般を賄うという仕事に就いたのだった。
仕事内容は、簡単なマニュアルを見ながら、引き継ぎで教えてもらうことで、理解することができた。ただ、その会社の締め処理というのは、結構たくさんあり、
「売掛処理など、10日事の締め」
があるということで、大変だった。
当時の売掛処理というと、銀行とのデータのやり取りなどがあり、
「数十種類の銀行との取引があることで、銀行データを、落とし込んで、さらに、当社フォーマットに加工する」
という作業が結構大変だった。
昔は、磁気テープや、フロッピーなどを使うという、
「当時としても、古めかしいデータのやり取り」
と言われるほどの手間がかかった。
送付されてきた銀行すべてからきているかの確認を行い、来ていなければ、さらに電話連絡からの、配送確認まで行わなければいけなかったから大変だった。
処理も、かなりの時間が掛かるので、夜中の作業となるのだった。
だから、締め処理の時などは、
「テープの付け替え」
だけでも結構大変で、それを考えると、
「仮眠する時間もないくらい」
だということである。
そのうちに、テープから、
「データ送信」
でのやり取りということになったので、テープの掛け替えがないだけ、かなり楽であった。
それでも、データが来ていない時の連絡は不可欠で、そのあたりは、アナログ対応だったのだ。
そんな中で、基幹業務とは別の、
「季節イベント」
といってもいい、年末の、
「ギフトシステム」
「クリスマスケーキシステム」
というものがあり、ギフトに関しては、お中元というものもあるので、夏の間にも、同じように、2か月間くらいの対応が必要だった。
これらのシステムは、
「期間中に受け付けたものを、業者に発注して、指定日に、お客さんのところに届ける」
というのが、主なシステムであり、当然それに伴って、
「マスタ整備」
などというのが、
「開始時の問題」
となるわけであり、その部分を、
「システム開発」
というものの、邪魔にならないところで、データベースソフトを使い、
「簡易で、マスタを作成する」
というソフトを作成し、自分で楽になるように、工夫はしていたりした。
しばらくやっていると、元々がプログラマ、SEというものからの出身なので、基幹業務から外れたところでデータを作り、
「商品マスタ」
「顧客マスタ」
などの加工はできるというものだった。
ただ、それ以外はというと、ほとんどが、
「処理を間違いなく流す」
というだけの、オペレーションだったのだ。
そのうちに、業務を行う自分と、あとのオペレーターは、外部の人間として、派遣社員を雇うことになった。
そのために、仕事が、
「入社してきた彼らのために、マニュアルを作成したり」
あるいは、
「彼らの教育」
「シフト表の作成」
などというものが、主だった。
あとは、時々、派遣者医者の営業との話で、
「業務内容の確認」
あるいは、
「派遣社員の業務態度」
などというものの、すり合わせ等が大きかったのだ。
派遣会社から派遣されてくる人は、男性ばかりではなかった。
女性も派遣されてくるというもので、営業の人が送ってきた履歴書を見て、正直びっくりしたのだが、その一人の女性が、大学時代の彼女だったのだ。
彼女とは、あの日、一夜を共にしてから、結局、また別れることになった。
彼女とすれば、
「あなたにお礼をしたいと思って、でも、どのようにお礼をしていいのか分からないので、こんな形になったの」
というのであった。
正直、びっくりさせられた。
「お礼って何なのだろうか?」
そもそも、
「俺が、彼女に対して、何も言ってあげられなかったことで、悪いことをしたということであれば、それは、俺の問題のはずなんだよな」
ということであった。
しかし、彼女は、
「自分が悪い」
と思っていたようだ。
ただ、彼女としては、
「あなたでは、私のようなややこしい女を賄えるわけはない」
という言い方をして、話を聞いていれば、
「私は、あなたとはお付き合いできません。でもその理由もハッキリと言えないので、そのお詫びに、あなたに抱かれます」
といっているようなものである。
普通に考えれば、
「俺に失礼じゃないか?」
と思うのだが、しかし、最初に、
「俺が悪い」
と思ったのは、間違いないことなので、
「こっちも、彼女の詫びを、そのまま受け入れてしまうと、まるで借りを作ってしまったようで、嫌なんだけどな」
と思うのだった。
しかし、そんな相手と付き合うというのも、嫌になっていて、
「それだったら、抱けただけでも、よしとするか?」
と思うようになったのも事実である。
「理由や、シチュエーションはどうであれ、彼女が俺の童貞喪失をしてくれたのは事実であり、そういう意味では、ありがたいと思おう」
と感じることで、彼女がいうように、
「お礼」
ということで、受け取ってあげるのが、彼女に対しての、
「気遣いなのだ」
と思うと、嫌というわけではなかったのだ。
そんな状態で、別れたのだから、ややこしいということでもなく、まるで、
「ろうそくの灯が消えるか」
のように、静かに、消えていったのであった。
そんな彼女との再会だったが、彼女は、最初、覚えていないかのように、まったく反応もなかった。
夜間の仕事なので、研修期間も二人きりということで、相沢が先生として教えるのは、だいたい10回くらいということになる。
夜勤で人に教える、先生役というのは、これで4回目くらいであったが、大体のパターンも分かってきた。
中には、なかなか覚えられずに、いきなり怒り出すという、
「訳の分からない」
というやつもいたりする。
その時の人は男だったのだが、最初から、
「こいつは、おかしい」
と思うようなやつだった。
最初におかしいと思ったのは、会話がいきなり、
「ため口だった」
ということである。
本来であれば、もし、偶然知り合いが来たのだとしても、そこは仕事なのだから、相手のことを、
「敬う」
という気持ちにならなければいけない。
お互いに、
「知り合いであっても、死後との付き合いだ」
という態度を示すのが当たり前というものだろう、
しかし、その時の男は、
「相沢さんは、結婚されているんですか?」
などと、初日は、一応敬語であったが、内容は、
「初日から話す話題ではない」
ということで、実際に、
「舐めている」
と思われても仕方のないことであろう。
しかし、相沢としても、その時の面接は、
「急に人が辞めたので、自分たちのスケジュール調整が厳しくなることで、それを、他の派遣社員に言えないことで、結局、自分が苦しむことになる」
ということになるのだ。
とはいえ、少しは、派遣社員にも、かぶってもらうことになるのだろうが、それでも、正社員としての、そして責任者である自分が背負うことになる。
つまりは、
「一人辞めた分のスケジュールのかなりの部分を、正社員である自分が、背負わなければいけない」
ということになるということであった。
それを考えると、
「少々のことは我慢するしかない」
と思うのだった。
しかも、
「まだ慣れていないので、不安もあって、このような態度をとっているとすれば、慣れてくれば大丈夫だろう」
と考えるようになるのだが、それが、時間が経つにつれて、
「そろそろ覚えてくるころのはずなんだが」
という時点になって、
「まだまだ覚えられない」
あるいは、
「態度が旺盛だ:
ということになると、もうどうしようもない。
その覚えるきっかけになるタイミングが、5,6回目だ」
と思っている。
「7回目で、その傾向がみられないと、まず無理だろう」
という判断を下すことになるのだ。
それでも、真面目であれば、考えてみるのだが、さすがに、5回目くらいの時に、
「あんたの教え方が悪い」
といって、キレられた時には、完全に、
「堪忍袋の緒が切れた」
ということであった。
「声を荒げると、派遣会社とのトラブルになる」
ということで、相沢は、何とか堪えた。
さすがに、静かな建物に反響する罵声は、精神に来てしまうレベルであった。
「ここまでくれば、もうダメだ」
ということで、部長に話をして、
「彼は、ちょっと無理です」
という話をすると、部長も、
「そうか、そういうことでは仕方があない」
ということで、派遣会社の方に連絡を取ってもらい、再度別の人を手配してもらうようにしたのだ。
すると、派遣会社の営業担当が、その日のうちに現れた。
その担当は、少しびっくりしているようだった・
「彼は、私が知っている中でも、忠実に業務をこなすということで安心していたんですが」
というので、さすがに、罵声を浴びせられたということまでは言えないので、やんわりと、
「それは、若干違いますね」
ということで、話をすると、営業担当の人も、
「そうですか、それは残念です」
といって、
「じゃあ、さっそく、他の人を手配するようにしましょう」
というので、こちらも、シフトを無理している手前、
「すみません、なるべく早めにお願いします」
ということをいうしかなかったのだ。
それを聞いて、
「はい、わかりました。今回は、ご迷惑をおかけして。申し訳でありませんでした」
という話だった。
結局、それから、半月ほどで、新しい人が入ってきたのだが、どうしても、前の人のイメージが頭の中にあるので、新しい人を、変な目で見てしまっている自分が嫌だった。
しかし、新しい人は前の人と違って、かなりしっかりしていた。
というよりも、
「気の遣い方が、うまいというか、
「最近まで、サラリーマンをしていたのではないか?」
と思えるくらいの人で、正規で入ってきて、その時聞いたのだが、
「ええ、ここで登録する前は、営業をしていました。精神的に病んでしまって、しばらく入院していたんですが、それで、会社を辞めて、こちらに登録させていただいたんですよ」
という。
「ということは、派遣としては、ここが初めてということですks?」
と聞くと、
「ええ、そうです」
というではないか。
前に来たとんでもないやつを考えると、あいつは、この派遣が長いというような話だったので、
「派遣を長く続けると、性格が曲がってしまうのではないか?」
と、勝手な思い込みをしてしまったが、
「そんなことを考えてしまうと、他のまともな派遣社員さん皆に失礼なことになってしまう」
と感じたのだ。
だから、
「あいつが特別におかしかったんだ」
と思ったが、さすがに数日で溜飲は下がったが、下がってくると、
「あんなやつがいるということを早めに分かってよかったかも知れないな」
と感じた。
何といっても、人間関係の問題である。
「いろいろな人がいる」
というものである。
これが、派遣社員と、派遣先の担当との関係であっても、
「最低限のモラル」
というものが存在する。
ということになるであろう。
「今回の男性は、うまく続けていってくれそうな気がするな」
と安堵で胸をなでおろしたが、それもつかの間、今度は、もう一人の女の子が、
「辞めたいんですが」
ということを言い出したのだ。
せっかく安堵したのもつかの間だったので、またしても、派遣会社の方でも、人材を募集することになった、
今度は、女性だった、これも安堵のイメージがあったのだが、それが、その時の彼女だったというのは、少しびっくりだった、
彼女は、名前を、
「藤本理沙」
と言った。
童貞喪失当時の彼女は、あどけなさが残る、いや、
「あどけなさの塊」
といってもいいくらいの雰囲気に、一緒にいるだけで、癒しを感じたのだった。
ただ、童貞喪失の時だけ、自分でもびっくりするくらい、理沙という女は、大人っぽさをイメージさせたのだった。
あれから、すでに、20年は経っているだろう、その間に、相沢もいろいろあったし、理沙もいろいろあったことだろう。
相沢は自分の人生を思い出していた。
そう、まず、大学を卒業するときに、大きな波があったのだった。
大学卒業の時、相沢は、結構、習得単位を残してしまった。
自分の中では、単位がちゃんと取れなかったのが、
「信じられない」
と思っていた。
ただ、これは、自分の甘さの露呈が招いた結果であり、
「まわりと同じようにしていれば、単位の取得くらいは何でもない」
と思い込んでいたのだ、
だが、実際には、そんなにうまくいくわけもなく、四年生になると、今度は、就職活動というものも出てくるわけだ。
自分が、就職活動をした時というのは、ちょうど、
「バブル崩壊」
と言われた、ひどい、
「就職氷河期」
まではいかないが、その一回前にあった、就職難の時代だった、
というのも、前年から、極端に、求職が減ってきたということで、
「大企業が、軒並み新卒採用を見送った」
という年だったのだ。
大学の、就職相談窓口に行っても、
「今年は、少し去年までとは事情が違う」
といっていたものだ。
当時は、それほど、就職について、結構甘く考えていた、
というのも、
「ただ、興味がある」
というだけのことで、
「製薬会社のプロパー」
というものを片っ端から、目指したものだった。
「資料請求から、面接まで、なかなか面接に行っても、一次面接で落とされる」
ということはざらであった。
製薬会社への面接などは、大体、街の中の一角に、ほとんどの会社は集中しているので、一日のうちに、
「数件の、面接」
ということも可能だった。
しかし、さすがに3つまでが限界だった。
面接というものも、結構労力を使う。その会社ごとに、いろいろと面接で聞かれるであろう質問を想定し、
「模範解答」
というものを考えておく必要があったのだ。
実際に、それらの質問の回答を考えてはいたが、
「回答が甘い」
ということなのか、それとも、
「会社にそぐわない」
と思われるような回答をしてしまったのか、自分でも分からないままに、面接では落ちまくり、
「いたずらに時間の浪費」
というものを繰り返しているという思いで仕方がなかった。
「本来なら、無駄に使っているはずのない時間なのに、どんどん、
「無駄なことをしているのではないか?」
と考えるようになり、追い詰める必要のない自分を、追い詰める結果になってしまっていたのだ。
今から思えば、もう少し、
「何とかなる」
という思いを持っていれば、あそこまで苦しむこともなければ、
「いたずらな時間」
というものを費やすこともなかったのかも知れない。
それを思うと、
「俺は、何をしていたんだ」
と思わないわけもなかった。
実際に、まわりが皆就職が決まっていく中、まだ就職が決まっていないとなると、相当に焦るはずなのに、本人は意外とそうでもなかった。
就活を始めた時ほどの、精神的なきつさは、そこまではなかったのだ。
ひょっとすると、
「何とかなる」
という気持ちと、
「どこか、他人事」
という気持ちが重なるような形で、まわりの人を気にすることはなくなっていたのかも知れない。
「大学の卒業」
という方も、問題だった。
こちらの方は、就活で講義を受けれないこともあって、結構頭の中ではシビアだった。
何といっても、
「就職が決まっても、大学を卒業できなければ、すべてが、パーになってしまう」
ということであった。
だから、卒業ができるかできないかということが、最終的に引っかかってくるということであった。
だが、何とか就職も決まり、大学も単位を取得することができ、無事に就職ができた。
大学の卒業に関しては、卒業までの残りの必要取得単位の倍以上を、結局取得できたのだった、
要するに、
「かなりの単位を残していたので、とにかく、四年生になった時に、取れるだけの授業を取る」
ということを目指したのだ。
実際に、
「危ない」
と思っていたのにも関わらず、授業にもちゃんと出席できて、就活を行いながらも、何とか卒業ができたということは、自信にもつながった。
それまで、一度、
「どうすることもできない」
と思うくらいに落ち込んだのだが、今から考えても、
「よく乗り越えられることができたな」
と思うほどであった、
そのおかげで、就職は、
「望み通りの業種」
というわけにもいかなかったが、ある意味、
「違う業界でよかった」
と思ったのだ。
「製薬会社のプロパー」
というのは、
「成績のいい連中の、人気業種」
ということであった。
何といっても、
「給料がいい」
ということが魅力であり、そこだけに目を向けていると、大変なことになるところだといえるだろう。
何といっても、募集人数は結構なもので、入社に対しての、門は結構広いといわれていたようだ。
しかし、それは入社してからの状況を知るに至ると、
「かなりヤバい」
といってもよかったのだ。
「就職の際に、よりたくさんの人数を募集する」
ということは、どういうことなのかというと、
「それだけ、辞める人が多いから、募集が多い」
というだけのことであった。
「入社して数か月で、半分くらいが辞め、さらに、一年が経つと、ほとんどの新入社員が辞めていく」
ということが現実であった。
つまりは、
「辞めていく人間を見越して、たくさん入社させる」
ということであった。
要するに、
「離職率がハンパではない」
ということになるのだ。
それだけ、
「プロパー」
という仕事が大変だということになるのだろう。
何といっても、勉強しないといけないことがハンパではない。
理学部出身の、薬品に詳しい人であれば、だいぶ、馴染みは違うであろうが、
「薬品に関しては、ずぶの素人」
である自分たちが、今度は、薬品や医学のプロである、
「医者や、薬剤師に対して、営業をかけるのである」
ということだ。
だから、研修期間に、かなりのことを詰め込まれるということになるのだろう。
医学や薬学部の人たちが、4年かかって勉強することを、一部とはいえ、数か月で取得しなければいけないというのは、実に大変なことである。
「脱落者」
というものが出てきても、それは無理もないということになるだろう。
しかも、そんな研修期間を経て、いよいよプロパーというものへの挑戦ということになるのだが、まずは、
「見習い」
ということで、先輩プロパーと同行し、
「プロパーというのがどういうものなのかということを学ぶことになる」
ということであった。
実際に、医者のところに赴いて、営業内容を見ると、愕然とするのではないだろうか。
もちろん、この業界に入ってきた時、ある程度の話などは、聞いてきているだろうから、
「プロパーというものが、他の営業とは、一線を画したかのようになっていて、どれほど大変なものかということが、
「本当に分かっているのだろうか?」
と感じたのは、
「見習い」
の時だったのだ。
「話には聞いていたが、これは……」
と感じさせる。
というのは、
「これほど、医者というものに、ペコペコしなければいけないのか?」
ということであり、下手をすれば、
「プライベイトもないくらいではないか」
ということであった。
特に、
「医者という人種は、わがままだ」
ということなのらしい。
下手をすれば、変な医者に着いたりなどすれば、
朝だろうが、寝ている時間だろうが、電話でたたき起こされて、いきなり、
「ゴルフ行くぞ」
といって呼び出され、せっかくの休日が休日でないという状況に追い込まれるのだ。
確かに相手は、
「お得意様」
ということであるが、
「いくらえらいのか何なのか知らないが、なんでこんなに偉そうにされなければいけないんだ?」
とどうしても考えてしあうだろう。
「俺は、このままプロパーをずっとやっていけるだろうか?」
と、それまでは、仕事についていけるかどうかということであったが、今度は、
「人間としての我慢ができるかどうか」
というところにかかってくるのだ。
しかし、これは、他の会社に入った人が先に感じることであろう。
そういう意味で、プロパーという職業は、他の業種と違うところだといっても過言ではないだろう。
プロパーというものを、実際にどこまでできるかということで、最終的に離職率が決まるということになるのだ。
そんなことを考えてみると、
「俺だったら、まず最初の段階でダメだろうな」
と、相沢は、
「勉強の段階で脱落は目に見えている」
と思っているが、それ以上に、
「見習い」
というものになった時点で、完全に脱落するということも分かっているのであった。
そういう意味で、
「ああ、よかった」
と、
「知らぬが仏」
などという言葉があるが、
「知らないことがこれほどきついことなのか?」
と思い知らされた気がする。
そんな
「プロパーにならなかった」
いや、
「なれなかった」
といってもいい相沢は、結局、
「食品の卸売業」
の会社に就職した。
「地元地域としては、結構な大手のようだが、全国展開をしている会社ではない」
というところで、実は、
「財閥系企業の地域ごとに傘下となっている会社」
ということであるのを、入社してから知ったのだった。
会社は、結構、当時としては、
「儲かっている」
というところであったが、それも、これから迎えるべく、
「バブルの、前夜」
ということもあっただろうが、当時としては、
「零細企業」
などの会社を結構うまく買収をしていくことで、どんどん、会社が大きくなっているところであり、
「これは、バブル期に訪れる、破綻の防止のために行われた、大企業による、吸収合併」
というものを、少し違っていたのだ。
あくまでも、
「業務拡大」
を目的にしたもので、
「バブル経済」
を支えていたものなのかも知れない。
だから、すでに、当時はバブルになっていて、崩壊する前の、ちょうどいい時期だったのかも知れないということだが、
「自分が就活をしているこの時代に、ちょっとした不況」
というものが起こっていたが、これは、
「バブル期だったということもあって、思ったよりも大した不況には思えなかった」
ということであるが、
それは、実際に、その時代を社会人として肌で感じているというわけではなかったとおうことであろう。
就職も、うまくいくわけはないだろうと思われたが、
「卒業と同じく、何とかなった」
というのは、バブルの前夜で、その景気に包まれていたことが、大きかったのではないだろうか。
一つ新入社員の時に感じたことであったが、あれは、確か入社式の時であっただろうか、当時の、営業部長が、新入社員への訓示の中で、言った言葉として、
「上司がいかに理不尽なことを言っているとしても、最初の一年は黙って従ってください。二年目以降から、その意味が分かってきます」
ということを言っていた。
もちろん、意味が分かるわけではないが、その言葉が頭にこびりついて離れなかった。
「会社の上司が、理不尽な命令であっても従え」
といっているわけである。
そもそも、
「そんな理不尽な上司がいるということを、会社は許しているのか?」
ということを感じさせる。
仕事というものが、どういうものなのかということを、
「入社式でいうなんて」
と考えたが、
「心に残る言葉を」
ということを考えたのだとすれば、
「一目置く」
という上司だということで、
「この会社に就職できてよかった」
と感じるべきだろうが、さすがにそこまでは分からなかった。
それは、
「自分が、ちゃんと理解できるだけの頭が整理できているか?」
ということが問題だった。
就職が、うまくいったかどうか、すぐに分かるものではない。
しかも、その入社式の時、同じ上司だったと思うが、また少し意味深なことを言っていた。
というのは、
「三日もてば、一か月持つ。そして、一か月持ったのだから、一年はもつ。そうなると、定年まで働けるというものだ」
ということを言っていた。
つまりは、先の目標を立てて、それに向かっていれば、
「気が付けば、月日は過ぎている」
ということであり、
その月日の流れ方も、
「唯意義なものになるに違いない」
ということであった。
確かに、その上司のいう通りであった。
人間関係や、上の人との関係などは、この言葉を肝に銘じていれば、意外とスムーズに達成できるということになるであろう。
そんなことを考えていると、
「今の会社に就職できてよかったな」
と感じたのは、就職できて、四年目くらいだっただろうか。
「かかりすぎでは?」
と言われたが、実は、入社してから、一年目から二年目にかけて、いろいろな問題が発生したことによるものだが、あとから思えば、
「よくあの時、会社を辞めなかったな」
と考えるのであった。
それだけのことがあったのだが、時間がすぎてしまうと、
「過去のこと」
として、時代自体が古い時代で、時系列がハッキリとしない状況になっていたのであった。
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