第62話 春、藍、十七歳 2



    2



「絶対に離しちゃ、ダメだよ」

藍の声だ。

藍、六つの頃。

未だ赤子といっていい昭は家で母・倫とお留守番。

来年から小学生に上がるに関して、六歳の藍には命題が設定されていた。

それは未だ自転車に乗れないことだ。

水遊びが好きな藍はプールの縦は泳ぎ切れないが、横ならクロールと背泳ぎで泳げるようになっていた。

しかし自転車運転はダメだった。

なにより幼い藍には補助輪を外した状態で、なんで皆が自転車でよろけもせずに前にこげるかがはなはだ疑問であったのだ。

それを他人ひとは、「こげばなんとかるよ」とか「考えることより感じることだよ」と勝手なことを云う。

ちなみに藍は野球のルールも理解できなかった。

どうして一点入るかはようやく最近理解できた。

だが攻守の交代とボールの飛び具合で塁に出られる判定の微妙さがついていけない。

他人はそういう藍を「頑固だ」とか「負けん気が強い」と評した。

だが藍としては、理解できないものや納得できないものを何故に受け入れなければならないのか、よく判らなかった。

実際、自転車の運転というごまかしきれないものならばいざ知らず、野球に関しては得意になっている男子園児に尋ねると「打って! 走って! 守る! それだけだ!」と云われたが、本人にカマかけるような質問をするとあたふたとする、つまりよく判っていないのだ。

アニメや特撮を卒業して野球やサッカーに行く男子園児は年長組になってよく発生するが、その競技の本質を知ろうともしていない、と藍は結論付けた。

ただその競技に参加することで大人なオレのアピールだとしか藍には思えなかった。

というワケで野球はスルーしたが、自転車はさすがに乗らないと恰好がつかない。

そこで父親と練習に来たのは墨田川を見渡せる汐入の原っぱ。

子ども用自転車の補助輪は二つとも、父親が外してくれている。

荷台を父・延彦は両手で持っていてくれている。

こうして冒頭の、藍の台詞に戻るである。

「絶対に離しちゃ、ダメだよ」

「判っているよ、ラン。お父さんがランにウソつくワケないじゃあないか」

藍の背中から、父がそんなことを云う。

父と娘の作戦はこうだ。

推進力は運転者の両足ならば、バランス調整は補助輪とハンドルを握る両手だ。

補助輪を外したことで、そのバランス調整は半減する。

そこで父の両手が補助輪の代替えとなり、藍の両手をサポートすることとなる。

藍は両手でバランス取ることを一心に考え、バランス調整を完成させる。

それで自転車に乗れたことになるのだ。

「よ、よろけるよ」

「その分、力いっぱいこぐんだよ」

確かに、街を歩いているとハンドルを今の藍のようにグラグラさせている人はいない。

―こぐことに、その一点に意識を集中させるんだ!

藍は風を感じた。

これは補助輪の時には感じたことのない風だ。

風は藍の両頬を軽くなでる。

「ラーーーーーーーン! もうフツーにこいでるよーー!」

父・延彦の声は随分と後方から聞こえてきた。

―!

藍はカチンときた。

「お父さん! 手を放しちゃダメだって言ったでしょう!」

そう云った藍は、クルっと自転車を半回転させ、父親を見据えた。

―あ、随分と自転車で走ったんだ!

父親は軽く駆けてくる。

「すごいよ! もう走れるだろう」

藍が十メートル程走って、その十メートルを戻ってくる。

―こんな簡単なことをどうして今までできなかったのか!

藍は驚いた。

でも同時にあることを思い出した。

「でも、お父さん! 手を放しちゃダメだよ! 約束したよ!」

藍は怒っている。

それはつまり、目的のためには手段や方法における善悪や美醜は問われなくていいのか、ということだ。

だがまず、父親は満面の笑みをしてこう云った。

「ランのためならば、ついていいウソだってあるよ」

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