第61話 春、藍、十七歳 1



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地下鉄を使って延彦は通勤している。

最寄りのJRの駅もあり、これでも通勤可能だったが、彼は地下鉄が好きだった。

確かに大雪や台風でも不通になることがめったにないという実利的なメリットはあったが、地下鉄の地下水の香りや地下から地上に出る高揚感が好きだった。

時刻は21:30。

彼の妻が今夜もご馳走を作って待っているハズだった。

実際、延彦は妻の手料理が好きだった。

一戸建てを買えたのは、実家の援助はあったからだ。

だが日々の払いは延彦によってまかなわれている。

長女は来年大学受験、その弟は3年後にそうなる。

だから、二人が大学を卒業してラクになるのは七年後、そうしたら、大人として立派に役目を果たしたことになる。


もう、少しだ、と延彦はひと心地ついた。

そして四十代の彼には七年があっという間に過ぎることも知っていた。

―昭は頭はいいが、精神的には脆いところがあり、勉強はできるが就職でつまづくかもしれない、そうしたら、数年のフリーターになるかもしれないが、それは許そう。

―ランはともかく集中力と判断力があるから、留学とか起業とか言い出しかねないので、就職や結婚を親としては望むが、なるべく普通の人生を送らせるようベクトルを修正していく必要があるだろう。

―二人とも片付いたら、倫とゆっくり旅行三昧の日々を過ごそう。TVを観ていて、行きたいと思っても行けなかった遠方に行ってみよう。

延彦は家族一人一人の顔を想い浮かべながら、そのように思っていた。

いつものように家の電気がついていた。

チャイムを鳴らすと開けたのは妻の倫ではなく、娘の藍であった。

「ただいま、ランが開けてくれるなんていつぶりくらいだろう」

茶色の革靴を脱ぎながら、特に目を合わせずに延彦が娘に云う。

藍は無言で玄関から奥に移動する。

―?

延彦は昭に比べて、藍が気持ちにムラがある子どもだと結論付けた。

電気もついていない廊下を歩く。

すりガラスからキッチンには電気が灯っていることが判る。

「ラン、お母さんはどうした?」

延彦は別に怒っても悲しんでいないように、普通に聴く。

「お母さんは昭と出かけた」

藍も特に怒るでも咎めるでもなく、答える。

「なんか、食べるものある? お父さん、お腹ペコペコだよー」

少しおどけたふうに延彦は云う。

おそらくこの緊張した感じに耐えきれなくなったのだろう、と藍は思った。

藍はやはり無言で冷蔵庫を開ける。

いつも家でパックを入れて作っている麦茶の水差しを取り出した。

数年前、作るのが面倒だからと2リットルのペットボトルに替えたことがあったが、今度は重すぎて持ち帰るのが面倒だという話で、結局麦茶に戻した。

「そっか、じゃあ、お父さんと外で食べようか?」

延彦が闊達に云う。

藍はまとも無言で二つのコップをテーブルに並べる。

「ランは、隣駅のファミレスのチーズハンバーグセット好きだっただろう、どう? 行こうよ」

延彦はこの時は未だ元気だった。

藍は無言で、二つのコップに麦茶を注ぐ。

「オレさ、きみのお父さんじゃん、ラン、なんでも相談乗るよ」

延彦は笑顔で云った。

藍は延彦に向かい合った。

一度目を落とした。

そして顔を上げた。

「飯田安奈さんと谷口早苗さん、お父さんは知っているよね」

「!」

「今はもっと若い女性だっけ? お父さんの浮気相手」

「何を言っているんだ? お父さん驚いちゃったよ」

「否定するんだね」

「本当によく判らないんだよ、どうしちゃったのさ、ラン」

藍は特に声を荒げたりしていない。

対して延彦は内容は既に滑稽だが、決して芝居かかった演出はしておらず、まさに寝耳に水といった風情であった。

そしてそれは事実でもあった。

延彦は混乱していた。

それは、会社内のライバルというか、気の合わないヤツの顔が何人か上がったのは、おそらく妻か娘に〈このデタラメ〉を吹き込んだのではないか、という思いからであろう。

「お父さん、オチから言うよ、今夜から私は類さんの部屋で暮すよ」

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