第6話 転落と吸収と突進 6



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聴こえたのは至近距離からのエンジン音。

暴漢女性は下がりながら、でも洋二と藍との間合いはそのまま。

彼女が藍を襲おうとしていた時に、このトラックの運転手が仮眠を取るために駐車していたので、とてもわずらわしかった。

気づかれたら、もし犯行の時に目覚めていたら、どうしよう、と。

トラックまでの距離は10メートルだが、エンジンがかかっても、タイヤが動き出しても、そのタイヤが数回転しても彼女は動き出さなかった。

暴漢女性は信号機の存在を忘れていなかった。

もう一度のエンジン音が聴こえた時に彼女は初めて、振り向き、脱兎のごとく、駆け出したのだ。

ホロを持ち上げ、荷台に転がり込む。

その一連の流れは、洋二と藍からすると見つめ合っていた凶状持ちが急に振り返って、急に走り出し、トラックの荷台に乗り込んだだけであり、同時に、早朝にして交通量は都心でもそのトラック一台、なんなく二人の視点から消えた。

走れば追いついたかもしれないし、運転手に気づくよう大声をあげながら走るという考えも浮かんだが、この場から自分らに、明らかに殺意を向けた人間がいなくなって二人は満足してしまったのだ。

その瞬間、同時に二人の緊張がほどけた。

地面にへたり込む二人。

洋二は目頭を押さえ、藍は深いため息をついた。

「鮎川くんだよね」

「うん」

「ああ、ううん、名前を忘れていたというわけじゃあない」

「判っているよ。多分同じだ。同じように、何が起ったのか判らないんだ」

「そう、それ。混乱していて、この数分で何が起ったのか心と頭が着いていかない」

「飲む?」

藍は鞄から、チェーン店のコーヒーショップのものと判るステンレス製のタンブラーを取り出した。

深いひと息分をごくりと飲むと、洋二に渡した。

洋二は藍が口をつけた箇所の真逆の箇所を使って飲んだ。

「コーヒーかと思ったら、麦茶だった」と洋二が笑うとつられて藍も笑う。

「家出るの早いからさすがにコーヒーは煎れられないよ」

ようやく、ひと心地つけた二人だった。

「鮎川くんは今の女の人、知っているの?」

「いや、知らない、会ったことないし見たこともない。麻井さんは?」

「私も知らない。でも会ったことがあるような気もするけど、気のせいの可能性の方が高いと思う」

「そうか」

「鮎川くん」

「うん?」

「その、あのさ、大丈夫?」

それに気づかぬ洋二ではなかった。

藍もそれを洋二に問うているのだ。

「大丈夫みたい」

二人とも口には出さないが、暴漢女性に洋二が凶器で刺されたこと、そしてその後に用水路の高さ五、六メートルあろう川まで墜落したことに対しの「大丈夫?」である。

それに加えて、その落ちた高さ五、六メートルを瞬時に駆け登ったことも入るだろうか。

だが当事者である洋二の身体には現在、刺し傷や出血もないし、アザや打撲もない。

服には破れもないし、血もついていない。

暴漢女性の登場、洋二の身を挺しての献身、その後の彼は刺されて下の川に転落、そして又地上に戻り、女性はトラックの荷台に潜り込んで逃走、とこれが約3分くらいで行われたのだが、当の洋二に刺された傷と落下の痕もない。

ところが、これはお互いに声に出さなくても判る。

それが無いことに驚いている。

いや、この数分の出来事の方が二人には驚きだったので、傷や痕がないのはむしろ拍子抜けの部類だ。

「鮎川くん、お腹や背中を少し自分で触ってみてよ」

洋二はそれをそのまま行動で答えた。

頭や落下したとなると両足にも触れたが痛みはまったくなく、触った両手に血が付いていることもなかった。

いつもと変わらぬ自分の身体なのだ。

「大丈夫みたいだ」

そう云いながら洋二は立ち上がった。

藍もつられたように立ち上がる。

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