第5話 転落と吸収と突進 5


     5



地に足、とは足という身体の部位を前提とした物言いであるが、落下の最中に磨滅したかの如く、洋二の体はそういったそれぞれの部位が消失したような感触を味わった。

落下中に周囲の壁にぶつかったからか、風速によるものか、じしん自体が粘土をこねる度に丸みを帯びてくるようなイメージ。

地に身体全部が、裏も表もなく着地した質感。

更にそれが何かに覆われ、何かに閉ざされかけている。

そして全てが閉ざされた。

地に溶けていく、浸透していく、定着する、根源的な着床の再現か?

その連想が、今までの無機的でなくとも、原生生物のような有機的であってもサイケデリックな世界に、人間性を回復するような〈人として〉の意思を洋二に思い出させた。

冷たい!と思った。

川の中にいた。

そうだ!アイツを蹴った時に欄干から落ちたんだ!

それは、つまりどういうことか?

―麻井さんがあぶない!

そう思った瞬間、川に至る放水路の用水路の壁をすたすたと駆けあがった。

要領は、右足で飛ぶように壁を蹴り、落ちる前に左足で同じように壁を蹴る、を繰り返せばよい。

欄干に手をかけ、久々に元の地面に着いたのが、数日ぶりな感じがした洋二ではあったが、実にそれはブルゾン姿を蹴った反動で落ちてから約20秒後のことであった。

「ぶ、無事だったの!?  中途でブラ下がっていたとか!?」

藍はおそろしくマヌケな質問をしたがそれも仕方ない、ブルゾン姿、いや、暴漢女性と睨み合ったまま、間合いを図っていた。

スマホで警察や知人に助けを呼ぶこともできない程のにらみ合いが続いていたのだ。

だが暴漢女性には分が悪かった。

もう武器は無かったからだ。

「女の人だったのか」

その洋二の発言に藍はうなづく。

そしてその指示対象である女性は素顔を晒してしまったことがいかに自分にとってマズいことかを、ようやく理解した。

洋二と藍は17歳で、この女性は20代後半から30代前半、だから不意打ちでなければならなかったし、高校生男女混合の二人相手ならば、確実に分が悪い。

だからこの女性は逃げることを考え始めたが、睨み合う相手の藍から目が離せない。

洋二と藍が二人がかりで間合いを詰めてきているからだ。

そして、〈コレ〉が始まって、もう何分経っただろう。

5分、いや、3分。

どちらにしても東京の、しかも23区内。

この瞬間にも、通勤通学、近隣住民の散歩と誰かかしらが現れてもおかしくない。

というより、今まで出現しなかった方がおかしい。

かなりの早朝に、電撃的に襲い、逃げることが男子の方に妨害された時点で、成功率はかなり落ちたのだ。

怖いから足がすくんで動けないとかあるかもしれないが、藍もフードが取れてから、女の顔をじっと見つめられたままであったのも、この暴漢女性の失点であった。

その間、彼女はゆっくりと立ち上がり、いつでも藍に襲いかかれるよう態勢を立て直した。

そういている間に、洋二が水路の底から戻ってきたのだ。

時間にして、一分あるかないかで、ナイフを刺されて落ちた少年が又この大地に立っている。

―どうやって、登ってきたのだ?

そして暴漢女性は更なる疑問が浮かばなければならないことに気づいた。

―ナイフはどうなった? 突き刺さったままこの子は落下した。川でナイフを落としたとしても腹に傷が無い。血も無い。エッ!?

そう、それどころか洋二の服も破れていないのだ。

上着の血が付着していても判り辛かろうブレザーにも、ワイシャツにも破れも傷もない。

暴漢女性は、人の体に自分の持つ刃物が入っていく感触を思い出していた。

それは二度と味わいたくない感触で、勿論その感触自体が気持ち悪いというのもあったが、その感触が自分を絶対的な加害者にしてしまうことへの圧倒的な罪悪感があった。

だが、この少年はケガをしていない。

―いや、あの感触を忘れるものか。

しかし、彼女はその少年の考察を続けるヒマなどなかった。

ここは逃げることを考えなければならない。

だが、目を離せない。

さすれば、自然に耳をそばだてた。

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