第153話 海風の吹き抜ける街

 馬車のほろ隙間すきまから不思議ふしぎな香りがただよってきた。

 ふいにエミルの脳裏のうりなつかしい記憶がよみがえる。


(海が……近いんだ)


 それは潮の香りだった。

 エミルが生まれ育ったダニアの都は海から遠かったが、一度だけ海辺の別荘地へと遊びに行ったことがある。

 それはイライアスの所有する別荘地で、エミルの家族4人とイライアスの家族4人が皆で共に数日過ごしたのだ。

 まだエミルが5歳くらいの時のことであり、従兄妹いとこのヴァージルやウェンディーもまだほんの子供だった。


 姉や従兄妹いとこたちと遊ぶのが楽しかった一方、圧倒的な海の大きさと絶えることのない潮騒しおさいの音が恐ろしく感じられたことを覚えている。

 今、その海の近くまで来たという事実を知らせる潮の香りに、エミルはあらためて怖くなった。

 オニユリは自分を新しい家に連れて行くと言っていたが、それがどこなのかはエミルには知らされていない。


 海が近いということは、船でどこかに連れて行かれる恐れもある。

 海に出てしまえばその足跡を追うのは困難になるだろう。

 自分を探してくれているであろう捜索そうさく部隊の追跡が頓挫とんざすることを考えると、エミルはあせりを禁じ得なかった。


(誰か……気付いてくれたかな)


 エミルはここに来る途中で、自分の念を込めて地面に落としてきた陶器とうき製の人形のことを思い返す。

 だが、平野であんな小さなものを誰かが拾ってくれる可能性は低いし、拾ってくれたとしてもその人物がエミルの込めた念を感じ取れる黒髪術者ダークネスである可能性はもっと低い。

 さらにその黒髪術者ダークネスがエミルを助けるために動いてくれる側の人物かどうかとなれば、それはもう雲をつかむような話だった。


「坊や。もうすぐ着くわよ。疲れたでしょ? 新しい家で休みましょうね」


 すぐとなりでそう言うオニユリに、エミルはだまってうなづく。

 今はおとなしくしている他ない。

 ほんの少しずつだが、黒髪術者ダークネスとしての力が回復し始めている。


 問題は明日の食事でまたあの薬入りと疑わしき茶を出された時、飲まずにどう誤魔化ごまかすか、だった。

 あれを飲んでしまえば、せっかく回復しかけている黒髪術者ダークネスの力を再び失ってしまう。

 かと言って明らかにそれを飲むことを避ければ、エミルが薬の秘密に気付いていることをオニユリに気付かれてしまう。


黒髪術者ダークネスの力が回復し始めていることを絶対に知られないようにしないと)


 いざという時のために黒髪術者ダークネスの力は使えるようにしておきたい。

 エミルは不安を必死に抑えながらギュッと両手を握りしめ、馬車の揺れに身を任せるのだった。


 ☆☆☆☆☆☆


 港町バラーディオ。

 海風が吹き抜けるその街は、共和国にとって諸外国との交易の要所だった。

 大陸以外の諸島地域との交易によって大陸にはない各種の品物を入手し、それを大陸各地に販売している。

 交易の盛んな共和国は他国民の入国に対して柔軟な姿勢を示しているため、バラーディオのような港町には大陸各地から色々な人種が集まって来ていた。


 そんな共和国ならではの悩みが他国からの密輸や密入国だ。

 入国審査や税関検査は厳格に行っているが、人も物資も流出入が多いため、どうしても抜けあなをくぐる者が出てくる。

 それでもあまりめつけを厳しくしてしまうと、交易の潤滑じゅんかつさが失われてしまうため、難しいところだった。

 

 ただし現在は王国の人間については入国禁止の措置が取られている。

 王国は敵国になる恐れがあるからだ。

 それでも現在、このバラーディオでは毎日のように密入国者が摘発されており、その中には王国の人間もふくまれていた。


「さすがにおいそれと街の中に入るわけにはいかないわね」 


 港町を見下ろすことの出来る小高い丘の上に立ち、チェルシーは夕闇ゆうやみの中に浮かぶ港町のかりを見つめてそう言った。

 現在、バラーディオでは夜間の出入港が禁じられている。

 彼女のすぐそばひざまずきながらシジマは状況を報告した。


「手配している船の出港は明日の日中になります。大雑把おおざっぱな話で恐縮ですが、入港待ちの船なども沖合にいるらしく混み合っているせいで、入出港の時刻が流動的になっています」 

「慎重にね。この水際が一番危険よ」

「はい。港湾内には夜も見張りの小舟が多数出ておりまして、密入国の摘発に目を光らせております。しかし手筈てはず通りの方法で目標の船に潜入するため、今夜中には船倉庫に入っておく必要があります」


 そう言うとシジマは船倉庫までの詳細な道のりを全員に説明した。

 そこまでの手引きはこの街にすでに潜入している協力者たちがしてくれる。

 ここでも協力者たちの暗躍あんやくが彼らの活動を助けるのだった。


 ☆☆☆☆☆☆


「お客さんたちは到着したのかしら?」


 マージョリー・スノウの問いに用心棒の男はだまってうなづいた。


「そう。忙しいわね」


 先ほどこの港町バラーディオに到着したばかりの彼女は、一息つく間もなく次の仕事に追われてウンザリした表情を見せる。

 今、彼女がその身を寄せているのは、手を組んでいるレディー・ミルドレッドの所有する娼館の管理棟の一室だ。

 彼女の目下の仕事は王国軍のチェルシー部隊を無事にこの港から出航させること。

 その仕事を手掛ける者たちの監査役としてミルドレッドから要請を受け、マージョリーはここに出向いたのだった。


「私がこんなところまでわざわざ来たからには、きちんと目標を達成していると願いたいわね。チェルシー閣下かっかは」


 マージョリーがこのバラーディオへの出張要請を受けた時点ではまだ、チェルシーらが目標であるヴァージルとウェンディーの兄妹を捕らえたという報告は受けていなかった。

 イライアス大統領の子女である2人を捕らえ、この港から王国に向けて出港するというのが今回の作戦の最大の山場だ。

 当然この港町は共和国軍の警備が厳しくなっている。


 だからといって港を避けて、どこかの浜辺から小さな船で荒波の海路を王国へ向かうのは危険がともなう。

 大きな船にまぎれ込んで王国への帰還を果たすためには、やはり港を経由する必要があるのだ。

 それに警備が厳しいとはいえ街は人が多いために、人波にまぎれて行動しやすいという利点もあった。

 木を隠すなら森の中というわけだ。


とらわれの身となったヴァージルやウェンディーの泣き顔をおがんであげたいところだけど……」


 マージョリーにとってその2人は恋敵だった女が産んだ憎い相手だ。

 本当ならばイライアスの子供は自分が産むはずだった。

 そう思うとヴァージルらの泣き顔を嘲笑あざわらってやりたいとさえ思う。

 だが自分が表舞台に出るのは危険だった。


 マージョリーはスノウ家から勘当に近い扱いを受け、家への出入りを今後一切禁じられているが、籍としては貴族のままだ。

 自分が今回の計画に加担していると知られれば、共和国政府によって断罪され、いよいよ貴族籍も剥奪はくだつされるだろう。

 あくまでも裏方に徹する必要があるのだ。

 いざとなればミルドレッドに全ての罪を押し付け、外国へ逃げる算段もつけてある。


「少々物足りないけれど、子供たちがさらわれて泣き震えるクローディアの顔を想像して楽しむだけに留めておきましょうか」


 そう言うとマージョリーは邪悪にゆがんだ笑みをその顔に浮かべるのだった。

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