第114話 鉄の意志

「うああああああっ!」


 怒りに我を忘れたネルがけもののような咆哮ほうこうを上げながら弓につがえた矢をアーシュラに向けて放った。 

 風切り音が鳴り響き、アーシュラのすぐ顔の横を矢が通り抜けていく。

 だがアーシュラは微動だにせず、瞬き一つしなかった。

 その場にいる全員が息を飲む。

 そして怒りに任せて矢を放ってしまったネルは、その顔に薄笑みを浮かべながら口を開いた。


「どうしたんすか? 反応も出来ませんでしたか?」


 だがアーシュラはまゆ一つ動かさず平然と答える。


「当てるつもりのない射撃を避ける必要もないので」

「なっ……」


 ネルは思わず顔色を変えた。

 すぐ顔の横を射抜いておどろかせてやろうかと思ったのだが、それは見透みすかされていた。


「これでもいくつもの戦場を経験しているので。あまりオバサンをナメないほうがいいですよ」

 

 そう言うとアーシュラは冷笑を浮かべる。

 それを見たネルは再び怒りが頭の中を支配するのを感じ、弓に矢をつがえるとやじりをアーシュラに向ける。


「な……なら当ててやりますよ」

「もうやめなさい! ネル!」


 怒声を上げるプリシラに、アーシュラは再び視線を向けた。


「気の済むまでやらせてあげなさい。どうせ一発も当たりません」


 小馬鹿にしたようにそう言うアーシュラにネルは頭の中でプチンと糸が切れるような音を聞いた。

 その目がわり、限界まで引き絞った弓弦ゆんづるから……強烈な速度で矢が放たれる。

 ネルが放った矢はアーシュラの左のひざの横を正確にねらっていた。


 かすっても出血がさほど多くならない箇所だ。

 かすり傷を負わせてやるくらいの気持ちで放った矢だった。

 ネルにはそのくらいの芸当は朝飯前なのだ。

 だが……矢はアーシュラには当たらず、そのすぐ横をれていった。


「なっ……」


 信じられなかった。

 ネルは今までねらった的を外したことはない。

 だが、実際に矢はれ、アーシュラは平然とした顔をネルに向けている。

 その口からあざけりの声がれた。


「ヘタクソ」

「ぐっ……ナメんじゃねえ!」


 ネルは怒りに任せてもう一度矢を放つ。

 次のねらいは肩だ。

 だが……やはり矢は当たらずにアーシュラのすぐ横を通り抜けていった。

 信じられないといった顔でネルは両目を大きく見開く。


 的までの距離はたった10メートル。

 仮にこれが50メートルだったとしても余裕で当てる自信がネルにはある。

 だが、現実はそうはならなかった。


「ちっとも当たりませんね。自慢の腕前はそんなものですか? その程度で威張いばっていたとは」


 そう言うアーシュラにネルの怒りはとうとう沸点ふってんに達し、理性が吹き飛んでしまった。

 またしても弓に矢をつがえると、あろうことか今度はアーシュラの頭にねらいをつける。


「もうどうなっても知らねえっすよ」


当たれば確実に即死だ。

そしてネルが弓弦ゆづるを引こうとしたその瞬間だった。


「いい加減にしろ!」


 その声が背後から迫り、反射的にネルが振り返ると、そこにはプリシラが飛びかかってきていた。

 そしてネルはプリシラの拳を右頬みぎほほに浴び、ガツンという衝撃でふっ飛ばされる。

 あまりに強いプリシラの一撃に、ネルは一瞬で意識を失った。


 ☆☆☆☆☆☆


「アーシュラさん……いえ、隊長。なぜあんな危険な挑発を? ネルの奴、完全にブチ切れていたから、本当に矢で顔をねらっていたわ」


 プリシラはそう言うと今しがたのネルの凶行を思い返す。

 ネルは至近距離からアーシュラに向けて矢を放ったのだ。

 だが矢はアーシュラに当たらなかった。

 他の者は気付いていないようだったが、プリシラはしっかりとその目で見ていた。


 ネルが矢を放つ瞬間に、アーシュラがほんのわずかに体の位置をずらしてその矢を避けていたことを。

 アーシュラは赤毛だが黒髪術者ダークネスの能力を持つ。

 おそらくはネルのき出しの殺意を読み取り、なおかつその豊富な経験から来る読みでネルの視線や手の動きから射線を見切ったのだろう。

 だから事前に回避行動に入ることが出来たのだ。


 それは素晴らしい技術なのだが、そもそもアーシュラがあのような挑発行為をしたからこそ引き起こされた事態なのだ。

 ネルが粗暴で切れやすい性格だと分かっていながら、アーシュラは彼女の怒りをえて誘発するような態度を見せていた。

 今、ネルはプリシラになぐられて失神し、地面に横たわっている。

 また暴れ出すと危険なため、エリカとハリエットがネルの手足をなわで縛り上げていた。 


「彼女には自分の腕だけではどうにもならないことがあることを知って欲しかったのです。自信は粉々に打ち砕かれたでしょうね。でも、自信というのは打ち砕かれた後にきたえ直してこそ本物になるのです」 


 平然とそう言うアーシュラに、プリシラは彼女のことが恐ろしいと思った。

 アーシュラは目的を果たすためならどんな手段でも取るのだ。

 たとえそれが自分の命を危険にさらすようなことでも。

 このくらいの鉄の意思と揺るぎない精神力があってこそ、アーシュラはダニア史に残る数々の偉業を打ち立てることが出来たのだろう。

 その金剛不壊こんごうふえの精神力を持つアーシュラの前では、自分たちなどいかにも小娘なのだとプリシラは思い知る。


(だけどこの部隊……本当に大丈夫かな)


 プリシラが前途多難な部隊の行く末を案じていると、ネルの体を縛り終えたエリカとハリエットがプリシラの元にやってきた。

 ハリエットが肩をすくめて言う。

  

「縛り上げました。プリシラ様。相当強い力でなぐったんですね。ネルの奴、完全にノビてますよ」

「う、うん。咄嗟とっさだったから手加減出来なかった」

「まあ、あのくらいガツンとやってやれば、あのアホも少しは反省するでしょ」


 そう言い合う若い娘たちにアーシュラは言った。


「そのプリシラ様というのをやめなさい。今、彼女は女王の娘ではなく、単なる一隊士に過ぎません。ブリジットからもそう処遇するようおおせつかっております。プリシラ。あなたも分かっていますね?」

「うん。い、いえ。はい。心得ています。隊長」


 ブリジットはアーシュラにそう言うと、視線を転じて仲間たちに目を向ける。


「敬語もやめて。アタシはみんなの中で一番年下だし、ただの同僚として接してほしい」


 皆はどこか居心地悪そうに、だが一様にうなづいた。

 プリシラは女王の娘であり、敬意を持って接するべき相手だった。

 いきなり同僚のように接しろと言われても困惑してしまう。

 慣れるには時間がかかるだろう。


「う……うぅ……」


 そこでうめき声をらしながらネルが目を覚ます。

 その右頬みぎほほはプリシラに力一杯殴られたせいで赤くれ上がっていた。

 プリシラは縛られたまま地面に横たわるネルのすぐ近くにしゃがみ込んだ。

 ネルは自分が縛られているのを知り、忌々いまいましげに顔をしかめる。

 そしてプリシラを恨めしそうに見上げた。


「ち、ちくしょう……力いっぱいなぐりやがって」


 だがプリシラはそれに構わずネルの両腕をつかんだ。

 そしてその手に力を込める。

 途端とたんにネルが悲鳴を上げた。


「イ、イテテテテ! 何しやがる!」

「次にまた馬鹿なことをするようなら、アタシがこの両腕をへし折ってあげる。弓を使えないようになるわよ」

 

 そう言うとプリシラはネルの両腕をつかむ手により一層力を込めた。

 ネルの腕の骨がギシギシと悲鳴を上げ、たまらずにネルは声を上げた。


「わ、分かった! 分かったから放せ! この馬鹿力!」

「フン! この痛みを忘れないことね」


 そう言うとプリシラはネルの両腕を放す。

 赤くなったネルの両腕には、くっきりとプリシラの手形がついているのだった。

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