〜スタ・ハラ〜 完結
影山は無我夢中で『Pantera』のビル横の非常階段を駆け上がっていた。
影山の中に溢れていたのは恐怖や嫌悪ではなく、子供の頃純粋に走っていた時の楽しさや快感であった。
いや、そのどれよりも素晴らしい開放感であった。
今までヘッドフォンで塞いでいた世界の音が、今や艶美なJAZZの様に流れ、とても卑猥でセクシャルであった。
足が階段を蹴る度に、影山の身体に電気が走り、頭を突き抜けていった。
もうこれからは「スタート」なんて言葉に怯えることは無い。
ましてヘッドフォンなど必要無い。
ビルの7階まで駆け上がった影山の前には本来厳重に鍵がされていたいるはずの扉があったが、何故か影山の到着を待っていたかの様に静かに開いた。
屋上に出た影山は足を止め、大きく手を伸ばし夜空を見上げた。
影山が長らく忘れていた開放感が、そこには広がっていた。
「なんて素晴らしいんだ。
今なら誰よりも早く走れそうな気がするよ。
ありがとう美編。
いや、きっとその名も嘘なんだろう?
君は女神だ。
そんなありふれた名前であるはずが無い。
でもそんな事はどうだって良い。
君がこの幸福感を教えてくれたのだから」
心の声で叫んだ影山は、ゆっくりと深呼吸をしながら徐ろに足で線を引く仕草をすると、その見えない線に右足を合わせ、スタンディングスタートの構えをした。
そっと目を瞑り、耳を澄ませ、もう一度美編の声を思い出した。
「スタート」
再び激しい破裂音が響くと、影山の身体は快感に包まれた。
影山は再び走り出した。
影山を止められる存在は居なかった。
スピードを落とすこと無く屋上の柵を越え、影山は路上へと落ちていった。
ーーーーーーー
路上に落ちた影山の身体を中心に、悲鳴が溢れた。
余りの事に目が離れなくなってしまった者、恐れ多くもカメラを向ける者、恐怖の余り逃げ出す者と様々であった。
そんな中でも美編は平然と座っていた。
目の前に横たわる影山の身体を見下ろしながら静かに微笑み「良いスタートだったわ。でも光一君、私達にゴールはないの」と囁きながら、ゆっくりと立ち上がり、人混みを問題にすることなく夜の街へと消えていった。
無論店内もパニックであった。
マニー達は大騒ぎしながら入口へと向かい、カウンターにはマスターとクレメンスだけが残された。
「分かっていたのか?」とクレメンスが問い掛けると「言っただろ、運命さ」とイグニスは淡々とグラスを拭きながら返した。
「あそこに何がいたんだ?
あの青年は何と会話をしていた?」
どうやらずっと、周りの人間達には美編の存在は見えて居なかった様だ。
「何度も言わせるな、運命だ」
クレメンスの問いに、イグニスは気怠く返した。
「そう無碍にしないでくれよイグニス。
俺だって少しは〝見える〟方なんだ。
それに俺は紛いなりにも国境無き刑事だ。
教えてくれ、あの青年に何があった」
イグニスは懇願するクレメンスを訝しがるように見つめ「お前には余り関わらせたくないんだがな」と前置きをしながら答えた。
「俺はずっと言っている。
あの男の前に座っていたのは運命さ。
アイツは女神の声を聞いたのさ。
幸せだっただろうよ」
イグニスの返した答えに、クレメンスは全く納得出来なかったが「そうか」と小さく返しながら、ウィスキーを片手に人混みに目を移した。
ーーーーーーー
時を同じくして、とある場所で悲鳴に似た産声を上げながら赤子が産まれた。
元影山であった魂は、今一度人生をスタートさせた。
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