〜スタ・ハラ〜 その3
その日から影山は「スタート」と言う言葉を聞くと、爆発音と共に激しい頭痛と目眩に襲われる様になった。
症状は徐々に悪化し、まず文字が駄目になり、関連して「スタート」に紐づくものも駄目になった。
そして影山はヘッドフォンをするようになり、視界からはメディアを極力消した。
そんな中でも唯一SNSで連絡を取り合っていたのが、今の彼女である美編(ミア)であった。
ーーーーーーー
坂本との呑みから二日経った金曜日、美編が用意した場所に影山は向かった。
池袋東口の大通りから路地に入った場所に『Pantera(パンテラ)』はあった。
何度も来た事がある店で、奥に深く伸びた店内から、カウンター、テーブル席、そして少しのテラス席となっていた。
そして美編は決まって入口のテラス席を選んだ。
店は常に荒々しい音楽が流れ、海外の客が集うスペイン料理の店だった。
美編が何故この店が好きなのかは分からなかったが、周りの声が日本語では無い所に美編の優しさを感じ、100キロは優に超えているであろうマスターが出す料理は、なるほど全て美味しかった。
しかし彼女が料理を口にする事はなく、ただ店内の様子や街行く人達を微笑ましく眺めるのが殆どだった。
彼女は生まれつきの難聴で、耳は全く聞こえないらしく、二人は不登校が集う掲示板の中で出会った。
影山が何とか社会でやって行けているのは美編のお陰であり、美編は常に影山を想いアドバイスをしたが、影山には中々伝わらなかった。
「お前が羨ましいよ」
面と向かいあった二人の会話は、卓上に置かれたタブレットで行なわれた。
「俺も耳が聞こえなければもう少し楽なんだけどな」
美編は軽く呆れた様子で、文字を返した。
「まったく…そうやってずっと塞ぎ込んでるから、中々未来が見えないのよ?」
美編はとても強い女性だった。
影山が見る限りには、彼女は既に幼少期に負ったであろうトラウマや、自らのハンデに対する悲観も払拭している様に見えた。
しかし実際の所は彼女が過去について話した事は殆ど無く、全て影山の想像だった。
彼女の全てを知ろうとするには、影山にとって美編は時に眩し過ぎた。
「ごめん、そんなつもりは無かった。
でも美編はこの店が好きだな」
「ええ、だって何だか皆楽しそうじゃない?
私にはどんな事を話しているのかも、どんな音楽が流ているのかも分からないけれど、きっと素晴らしいんだろうなって。
光一君は聴くことが出来るんだから、ヘッドフォンを外せば良いのに」
「はは、ヘッドフォンを外しても聞こえるのは、僕には分からない音楽と、僕には分からないラテン語だよ」
美編は溜息をつきながら肩を落とした。
「私は光一君がそのヘッドフォンから開放される所が見たいのに。
それにきっと、それはもうすぐよ。」
影山は薄っすらと笑って返した。
以前影山が美編に名字を聞いた時には「私に名字なんてないわ。私は美編。ただそれだけよ」と言われ、三姉妹の一番下である事は聞いたことがあるが「姉達とは意見があった事が無いの。二人とも過去や今の話ばかりでちっとも詰まらない。私は未来が好きなの」とされた。
影山はそんな彼女の未知な所に、惹かれていった。
ーーーーーーー
カウンターの奥ではマスターと常連の数人が話していた。
「また来てるな。
マジで気味が悪いぜ。
マスターも良く受け入れてるよな」
常連らしき男が口にすると「まあそう言うな。皆其々悩みがあるのさ」と返した。
「でも入口のテーブルにあんなのが居たら、客も入って来づらいぜ。
ずっとタブレットいじって、それに…」
また違う客の言葉をマスターは遮った。
「気にするな。
俺達…いや俺は何においても中立だよ。
人間ってのは神に自由を許され、神によって制限される。
何とも哀れな生き物なのさ」
「出たよまたマスターの神のお告げだ。
そうだな、あんたは偉いよ全く」
常連達はそこでマスターに同意を乞うのを止めた。
「まぁマスターの言う事も一理ある。
どんなに制限されようと、制限の中なら自由さ。
今日も楽しくやろうぜ」
常連の一人がグラスを上げ、其れに釣られて周りの数名もグラスを上げた。
これから楽しい夜の仕切り直し…と行きたい所だった常連達の目が、入口に現れた男に集中し、勘弁してくれよと皆項垂れた。
その男は目の下に大きなクマを引っ提げて、真っ直ぐカウンターへと向かって来た。
「クレメンスだ。
また陰気な奴が来やがったぜ。
マスターお会計だ。
アイツの前じゃ楽しい酒は呑めねぇよ」
そう口走った男の肩に手を回し、新加入の男は声を発した。
「つれない事を言うなよマニー、楽しい夜はこれからさ。
俺が奢ってやっても良いぜ」
クレメンスの低く鋭い声は囁くようであり、しかし不思議と良く通った。
死神を具現化したような不吉なオーラを放ち、目は常にぼんやりと霞んでいた。
「けっ、お前に酒を奢られたら、俺は明日には豚箱行きだ。
マスターやっぱりもう一杯だ。
勿論俺の伝票でな」
クレメンスはニヤリと深く笑うと、カウンターの1番奥に陣取った。
「イグニス、ウィスキーをくれ。
そうだな、マニーとの素晴らしい夜だ、ハランを」
マスターのイグニスからグラスを受け取ると、マニー達の方へ軽く持ち上げ、嫌味に笑った。
マニー達御一行は勝手にしてろと背を向け、仲間うちで話し始めた。
「最近どうだいイグニス」
「まぁぼちぼちだ、変わったことは無いよ。
多少荒れてる所はあるが、ここもまた日本。
やっぱりこの街はとても中立的で、俺には居心地が良いよ」
マスターの返答に「そうか」と適当な返事をし、ウィスキーを軽く口に流し、ちょいと入口に傾けた。
「ありゃなんだ。
変わったやつだな。
常連なのか?」
クレメンスは影山を見ていた。
やはりこの店でヘッドフォンを外さず、タブレットをいじる男の姿は万国共通で異様だったらしい。
「あぁ、ありゃまぁ運命だわな、直に分かる」
イグニスは含みのある返事を返した。
「そうか、俺にはまだ分からないな」と返事をして、クレメンスはまた軽くウィスキーを口にした。
ーーーーーーー
影山は坂本から手に入れた他愛もない会社の出来事を、美編に文字で聞かせた。
美編はそれを楽しそうに微笑みながら聴いていた。
全く掴みどころが無い美編に、影山は益々心を奪われていた。
美編と話している時だけは、何も怖く無いように感じた。
美編の声が聴けるのであれば、喜んでこのヘッドフォンを外すのに、と影山は心からそう思った。
「そろそろかしら?」
タブレットに打ち込まれた美編の文字を、影山は理解出来なかった。
まだ帰るような時間でも無いし、話も途中だった。
「そろそろ光一君のヘッドフォンを外す時が、近付いている気がするの」
続いた美編の言葉も、やはり影山には分からなかった。
「どうしてそう思うんだい?」影山は質問した。
「だってもう分かって来たんじゃないかしら?」
そう言うと共に、不意に美編が口を動かした。
影山は慌ててヘッドフォンに手を掛けたが間に合わなかった。
優しく微笑む美編に、影山はムッとした。
どうやら影山の気持ちは見透かされている様であった。
「私の声が聞きたい?」
続いたその文字に影山は戸惑った。
確かに美編の声を聞きたい気持ちはあったが、それは触れてはいけない輪郭な気がした。
自分にとって人生で最後の望みのような、美編に会えなくなってしまうような、不気味な開放感があった。
しかし、しばらく考えた後に影山は深く頷いた。
美編は今迄で1番にこやかに微笑みながら中腰に立ち上がると、影山の方へと顔を近づけた。
影山はそれにシンメトリーする様に、同じく顔を近づけた。
二人の顔がテーブルの真ん中に来た時、美編は影山のヘッドフォンを優しく外した。
影山の耳に騒がしい音楽と知らない言語の会話、街を行き交う人々の喧騒が一気に流れて来た。
そして美編は影山の耳元で優しく囁いた。
「スタート」
その瞬間影山の中にけたたましい破裂音が響き、次の瞬間には影山は走り出していた。
急に店の外へと走り出した影山を見て、店の客達は慌ててマスターに伝えたが、イグニスに全く慌てる様子は無く「言っただろう。運命さ」と答えながら、店の奥の受話器へと向かった。
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