第3話家族
セラフィが目を覚ました時、寝台の横の椅子に女の人が座っていた。熱心にセラフィを見つめる瞳からは、涙が零れて零れて目が融けてしまうんじゃないかとセラフィは心配になった。
「誰?」
知らない人だった。侍女じゃない。
いくつもの息を飲む声が聞こえた。
「セラフィ、お母様ですよ」
女の人は優しい声でそう言った。
「お母様? お母様はここにはいないの。僕が殺してしまったら駄目だから、家族は誰も来ないって先生が言ってた……」
「アリシア、セラフィは混乱しているんだ。大丈夫、時間をかければ思い出す」
髭を生やした男が女の人をアリシアと呼んだ。
「ジョセフ、あなたは楽観的すぎるわ。セラフィから離されたのはこの子が五歳の時よ。あなたは五歳の時のことを覚えているの?」
女の人はアリシア、男の人はジョセフ。聞いたことがあるような気がするけど、わからない。
「……覚えていないかもしれない」
ジョセフは衝撃を受けた顔をセラフィに向けた。大人の男の人は怖い。セラフィが会うのはネグレスしかいなかったからだと思うけれど、頭を撫でようと手を伸ばしたのを思わず躱してしまった。
「先生はもうここにはいません。セラフィだけでなく私達にも嘘をついていたの。それにあなたに怪我をさせるなんて――」
ネグレスがもう来ないとわかって、セラフィは本当にホッとした。
「セラフィ、寂しかっただろう」
ジョセフはセラフィを撫でようとしてできなかった手を呆然と見つめて、そう言った。
「あなたは?」
「お父様だ」
「セラフィ、イグニス兄様だよ」
皆が次々に家族だと言ってセラフィに触ろうと手を伸ばす。セラフィはその手が怖かった。
「や。触らないで!」
小さく蹲ってセラフィは叫んだ。
酷く傷ついた声で皆がセラフィを呼ぶ。
「セラフィ、ごめんね。私を守っただけなのに、こんなところに隔離されて……。寂しかったんだね」
イグニスが悲しんでいるのがわかっても、セラフィは自分を守ることで一杯一杯だった。
「アレク!」
自分ではどうすることもできなくても、アレクシスなら助けてくれるような気がした。見えなかったけれど、呼べばすぐに姿を見せてくれた。側に控えていたのだ。
「殿下、ここにおります」
「アレク、アレク!」
手を伸ばすとアレクシスが抱き上げてくれた。
「殿下、落ち着いて。息を吐きましょうね。ほら、あんまり泣いたらお目々がとけちゃいますよ」
変わらないアレクシスの声に、セラフィは息を吐いた。息ができないと思ったのは吐いてなかったからだと気づいた。
怖くても、魔力を暴走させたくない。この家族だという人達のいる場所で。
「アレクシス、人格変わってないか?」
ジョセフの軽口で、アレクシスは自分だけのものではないのだと気づいた。
顔を上げると寂しそうにイグニスが笑っていた。
「お兄様の株はアレクシスに奪われてしまったのかな……」
イグニスはアレクシスに抱かれているセラフィに尋ねた。
「小さかったから覚えていないのも無理はないわ。まだ五歳だったの。守ってあげられなかった私達のせいよ」
アリシアの哀しげな声を聞くと、セラフィの胸が痛んだ。何故だろうと思っても、わからない。
「殿下、何か覚えてませんか?」
アレクシスに抱かれていると、知らない人に囲まれていた恐ろしさが少しずつ引いていく。
「お母様は金色の長い髪だった」
「お母様の髪を見てください」
「金の髪……お兄様も」
「お父様のことは?」
「お髭がチクチクしてた……」
アレクシスの言葉で記憶の隅に追いやっていたものが浮き上がってくる。
父は綺麗に剃った顎に少し伸びた髭でセラフィの頬をザリザリするのが好きだった。母は長い髪を綺麗にまとめ上げて光の女神のようだと言われていた。兄はセラフィと同じ緑色の瞳で優しく微笑み、いつも手を引いてくれていた。
「セラフィが一緒に暮らせるように願掛けしていたから髭は伸びてるんだ……」
がっかりしたジョセフの背中を見たことがあるような気がする。
「あなたが家臣達の請願を受け入れたからセラフィはこんな目にあったのですよ!」
そうだ、よく母は腰に手をあてて怒っていた。そして今みたいに父の背中が寂しげに丸まって……。
「父上! 国王が背中を丸めてはなりません!」
バシッと兄が父の背中を叩く。そうだ、そんな日々だったような気がする。
パチパチと目を瞬けば、アレクシスが頭を撫でてくれた。そして頭にキスをしてくれる。
「アレク。アレクは僕が思い出したのがわかったの?」
「殿下の目から怯えが消えたからですよ。お母様はあなたを心配してカリナに報告させていたんです。だから目立たないようにカリナは髪の色を変えて侍女として離宮に潜り込んでいたんです。お兄様は、私をあなたの護衛騎士見習いへと推薦してくれました。お父様は私を信用して、縛り上げて連れて行ったあの頭髪の寂しい魔術師を直ぐさま尋問されました。皆様、ずっとあなたを待っていたんです。会いたいと願っていたんです」
セラフィにはよくわからないこともあったけれど、アレクシスが尽力してくれたのは、家族の心と願いがあったからだと理解できた。
「ありがとう、アレク」
アレクシスの頭にご褒美のキスをしようとしたけれど届かなかった。唇が触れただけのアレクシスの頬が真っ赤になった。
「あ、殿下。こんな人前で……」
オロオロとしているアレクシスに背中を押されて、セラフィは母の前に立った。
「お母様?」
「セラフィ、可愛い私の子。あなたは面食いだったのね」
ギュッと抱きしめられて、甘い花のような香りを嗅ぐと安心できた。この香りに包まれて眠っていたことを思い出す。
「セラフィ、駄目だ。もっと視野を広げて、沢山の中から選ばなければ」
わけのわからないことを言って、ジョセフはアリシアとイグニスの肩を抱いた。
「セラフィ、私がお兄様だからね。何でも相談するんだよ。お前が助けてくれなければ、私は死んでいた。可愛い私の守り手……」
セラフィの掌にキスをして兄は笑った。
そうだ、この人に暗殺者が襲いかかって、セラフィは魔力を使った。魔力をどう使えばいいのかわからなかったから、力の全てを暗殺者に向かって叩きつけた。結果がどうなるかわかっていなかった。暗殺者は風の魔力で真っ二つに分かれて、兄は悲鳴を上げて気絶した。血しぶきもかかっていたから、怖かったはずだ。
セラフィは自分の力に怯え、慄いて泣いた。泣いて、泣いて、魔力切れを起こして寝込んでしまった。目が覚めたら離宮に一人ぼっちだった。
『セラフィ様、魔力が暴走するとお母様達を傷つけてしまうんです。お勉強していい子にしていれば、きっと皆わかってくれますから……』
『乳母や、でも皆、僕のこと怖いからここに閉じ込めたんでしょ?』
魔術の教師がそう言っていた。
『いいえ、王様と王妃様、お兄様は待ってますよ。怖がってなんかいません』
そう慰めてくれていた乳母やも半年した頃、体調が悪くなって王宮から離れた。優しくしてくれる侍女が減っていったのもこの頃だった。
毎日繰り返されるネグレスの悪意のある言葉を聞かされる度に、セラフィは自分の家族を思い出せなくなっていった。
自分は一生ここに閉じ込められるのだと思っていた。
忘れていくことに気づいたセラフィは、絵を描いた。クローゼットの奥にしまいこんでいるので誰も知らない。辛くなったらその絵を眺めていた。けれど、子供の描く絵は人の形ですらなくて、見ても思い出せなくなった。家族の名前も、髪の色も、声も、何も――。
「お母様……。お父様……。お兄様?」
呼ぶと、はい、なんだい? 何で私だけ疑問形なの? と声が返ってきた。
不安になったセラフィは、後ろを振り向いた。アレクシスの側に寄って、ギュッと服を握ったまま、セラフィは家族に尋ねた。
「僕、また皆と会えるの? ……お話できる?」
「もちろんよ。一緒に暮らしましょう」
アリシアはきっぱりと頷いた。
「でも魔術……」
「ここに住めばいいわ。何故思いつかなかったのかしら?」
「アリシア、それは無理だ」
「王妃様、ここには魔術を抑える結界が敷かれているんです。魔術に慣れていない普通の人は半年もせず身体を壊します。だから侍女達は短期間で変わっているのです」
乳母やが身体を壊したのは季節を一つか二つ過ぎたあたりだったことをセラフィもアリシアも思い出した。
「……なら、セラフィを王宮に――」
「駄目だ。それは危険だ。セラフィを守りたいから私達は今まで我慢してきたんだぞ」
「でもジョセフ……」
アリシアの方が強そうに見えても、ジョセフも国王の威厳があった。
「お母様、時折でいいので会いに来てください。僕、ちゃんと勉強しています。だから……」
会いに来て欲しいと願うだけでも、セラフィには勇気がいった。
「当然よ。毎日だってくるわ。セラフィ、約束よ」
アリシアの目が泣きすぎて腫れてしまっていた。けれどセラフィの頬にキスをした時の笑顔は眩しく輝いていた。
「私も約束しよう」
「私も来るからね。セラフィ、一緒に遊ぼう」
「嬉しいです」
セラフィは家族で笑い合える日が来るなんて想像もしていなかった。
アレクシスが助けてくれたから。
「僕の護衛騎士になってくれてありがとう、アレクシス」
「アレク、と呼んでいただけないんですか?」
家族に呼ばれていると聞いた時、セラフィも呼びたくなって勝手に呼んでしまった。
「いいの?」
下から見上げると、アレクシスは嬉しそうに頷いた。
「もちろんです、殿下」
「僕のこともセラフィって呼んでくれる?」
「セラフィ様。……何だか恥ずかしいですね」
笑うアレクシスの真っ白な肌に赤みがさして、本当に照れているんだとわかった。
「ふふっ、アレクは恥ずかしがりやさんなんだね」
まだ成人ではないけれど、セラフィに比べれば大きなお兄ちゃんなのに不思議だった。
「……アレクシス、後で私の部屋にきなさい。色々と注意しなければいけないことがありそうだ」
ジョセフの硬い声に驚いて、セラフィは振り向いた。
「あなた、セラフィに嫌われたくなかったらつまらないヤキモチなんて捨ててしまいなさい」
「セラフィ、お父様はアレクシスを苛めるわけじゃないよ。男同士のね、色々なことがあるんだよ」
イグニスは笑いながらセラフィの頭を撫でた。その手はもう怖くなくなっていた。
「ヤキモチとか、嫉妬とか、イヤミとかじゃないかしら?」
「息子の窮地を助けてくれた人にお父様はそんなことをなさらないでしょう」
グッと、息を飲み込んだジョセフは豪快に笑いながら「当たり前だろう、感謝の言葉をかけたいだけだよ。見習いから昇格だな」と言った。頬が少し揺れていた。
「お父様、嬉しい」
セラフィは思わずジョセフに抱きついた。
「父上、抜け駆けですよ」
「あなた、ずるいわ」
夏の気配が近づくその日、離宮に笑い声が響いたのだった。
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