第2話悪夢からの解放
セラフィにとって一番の苦痛は、魔術の教師が訪れる時間だった。同じ風の魔術を使えることから選ばれたと聞いている。厳しくて、セラフィのことを嫌っているくせに、時折気持ち悪いくらい機嫌をとろうとする男だ。意味がわからなくてセラフィは本当に苦手だった。でも逃げ出せば罵られて、鞭で掌やお尻をぶたれた。それがセラフィのためだと言いながら。
「殿下、具合でも悪いのですか?」
アレクシスはセラフィの内心を見透かしたように尋ねた。
「別に悪くない」
悪いと言ったら、あの教師のように体調管理もできないのかと怒鳴られるかもしれない。
「そうですか。具合が悪いときは私におっしゃってくださいね」
「アレクシスは丈夫で頑丈なのが取り柄なので、具合が悪いとかわからないんです。だから殿下が教えてあげてくださいね」
馬鹿にしたような口調でカリナがアレクシスを評した。
「本当に、わからないのです」
困ったようなアレクシスの口調で少しだけ緊張が解けた。
「うん」
「私を体力馬鹿のように言うのはやめてください」
「……体力馬鹿ではありませんか。ダンスの練習をしたら相手が倒れる、剣の稽古をしたら相手が倒れる、勉強したら集中しすぎてご飯を食べ忘れる」
「勉強に体力は関係ないでしょう」
「体力がなかったらご飯を食べ忘れるほど集中できないんです。普通の人間は!」
カリナはアレクシスのことをよく知っているようだ。従姉弟というのはそういうものなのだろう。兄弟とですらあまり交流のないセラフィには新鮮だった。
「殿下。私も加減というものを覚えましたから。ダンスの練習も剣の練習もお勉強も一緒にがんばりましょうね」
アレクシスの言葉は魔術のようだ。人を傷つける魔術でなくて、セラフィを元気にしてくれる魔術。
「う、うん……」
セラフィは自然と微笑んでアレクシスの手を握っていた。手を繋いで魔術の勉強部屋へと入っていくと、そこにはもうネグレスが来ていた。
「遅かったですね。殿下は早く魔術を覚えて離宮から出たいとおっしゃっていたのに、さぼることばかりを覚えてしまって困ってしまいますよ」
「護衛騎士見習いの挨拶をさせていただいていて遅くなりました」
アレクシスは、セラフィと話していたときのような優しい顔でなく、まるで陶器の人形のような顔でセラフィのために言い訳してくれた。
「護衛騎士など、離宮でずっと閉じ込められている殿下には必要ないと思いますがね。勉強の時間です、出ていってもらいます」
アレクシスはセラフィのために椅子をひき、扉の前に立った。断固として出る意思はないと示すような不動の姿勢だった。
「魔術の勉強は繊細なのだ。出ていきなさい」
今までの護衛も侍女もそう言われれば反論せずに出ていった。けれど、アレクシスは静かに首を振った。
「護衛騎士が主の側を離れては怒られてしまいます。まさか、宮廷魔術師のネグレス様がそのような当たり前のことをお忘れとは」
眉すら動かさず、大の大人に向かってアレクシスは淡々と言ってのけた。
「なっ! 何を!」
「ネグレス様は護衛騎士の前ではできないような勉強を教えているわけではありませんよね」
「私は陛下から殿下の勉強を頼まれているのです。もちろん厳しくすることもありますし、間違っているときには正すように許可ももらっています。それを、来たばかりの騎士見習い風情が偉そうに私に説教か」
ネグレスは矜恃を傷つけられたのか青い顔をゆがめて吐き捨てるように言い放った。
「見ているだけでできなくなるような魔術では使い物にはなりませんね」
青い顔が赤くなって、セラフィは歪んでいく顔に恐怖を覚えた。
「アレクシス、大丈夫だから部屋の外で待っていて」
卒倒しそうなネグレスは、これでも父から命じられてセラフィの勉強をみている。それを追い返せば、きっとアレクシスが咎められるだろう。
「……はい」
「さっさと行きなさい。勉強の時間が減る」
アレクシスが出ていった後、機嫌の悪いネグレスはセラフィに精霊魔術の本を声を出して読むように言いつけた。時折こんな風に本をずっと読ませるのだ。ネグレスは、セラフィの音読を聞き流しながら悪態をついていた。
どれくらい時間が経ったのか、セラフィは喉に痛みを感じて読むのをやめた。
「まだいいと言ってませんよ。殿下」
「でも喉が痛い……」
掠れた声を気にもせず、ネグレスはニッコリと機嫌良さそうに笑う。
「痛いといえばそれで許されると思っているから甘えるのです。殿下は人を一人殺したのです。もう二度と痛いと言えない。ああ、可哀想に――」
「……暗殺者に情けをかけるのですか?」
「反論するなんて、さっきの護衛騎士見習いの影響ですね。殿下は感情を抑える術を覚えなくてはならないのですよ。そうでないと、あの暗殺者のように、ご家族も――」
セラフィは真っ二つになった暗殺者の身体を思い出して身体を震わせた。
「感情を揺らしてはいけません。何を言われても平然と振る舞うのです。痛みにも耐えるのです。私が嫌がらせで、こんなに長い間読ませていたと思いますか?」
自分ではニヤニヤと嘲りを顔に出していると気づいていないのか、それともこれもわざと振る舞っているのかセラフィにはわからなかった。
「あなたは私が大丈夫だと判断するまでこの離宮に囚われるのです。もしかしたら一生。嫌でしょう? なら、あの生意気な見習いを解雇なさい。そうすれば、庭に出られるように陛下に進言いたしましょう」
小さな中庭だけでなく広い庭に出られれば、きっともっと自由に違いない。そう思ったけれど、セラフィの心は全く動かなかった。執着すると、それが感情を揺らし、結果的に人を傷つけてしまうと言われて、親身になってくれた侍女はみんな離宮からいなくなった。今ここでアレクシスを庇ったとしても、直ぐに手を回されていなくなることはわかっていた。けれど、セラフィは自分の意思で解雇したくなかった。
「護衛騎士は僕の一存では決められません」
セラフィの頑なな心を感じ取ったのか、嫌な笑みを浮かべてネグレスは頷いた。
「いいでしょう。それでは私の言いつけを守れなかった罰を受けてもらいます」
言いつけというのは本を読み続けろと言われたことだとわかったけれど、そうでなくても何かしら言いがかりをつけてセラフィを打っただろうとわかった。
「掌ですか?」
細い鞭をネグレスは必ず持ち歩いている。気に入らないことがあるとそれで掌やお尻など日常では目立たない場所にふるうのだ。感情を揺らすなと、痛みを感じるなと無茶なことをいいながら。
「いいえ、今日の殿下は非常に反抗的です。お腹を出してください」
セラフィは、ごねても意味がないことを経験上知っている。
「しっかり持ち上げなさい」
上着を脱ぎ、シャツを持ち上げるとニヤリとネグレスは嗤った。
気持ち悪い、とセラフィは視線を落とした。
「こちらをみなさい。これは殿下が悪いのです。それをしっかり――」
バシッと風を切る音がした。熱いっと思った瞬間腹に赤い線がついた。こんな力任せに鞭を振るわれたのは初めてだった。いつもはあれでも加減していたのだろう。
「止めて!」
三本の線が刻みつけられた瞬間、セラフィは声を上げた。
「私も殺しますか? 殿下」
ネグレスの声は、できもしないくせにと嘲るような響きだった。
この檻からでることなど一生ないのだ。どんなに頑張って耐えても、誰も褒めてくれるわけでもない。もう、全部投げ出してしまってもいいかもしれない。そうすれば、アレクシスもイグニスの護衛になり、こんなところで意味もない護衛などしなくてもいい――。
そして、セラフィが身の内で抑えていた風の力を集めようとした瞬間、確かに集まっていた魔力が弾けるように消えた。
「はははっ! 面白い、この離宮は魔術が使えないようになっているのですよ。あなたがどれほど強大な風の使い手であろうと――っ、ブッ、ギャッ!」
両手を広げて陶酔したような笑いを浮かべながら、ネグレスは床に倒れていった。その背中をアレクシスの脚が踏み下ろしている。
「よくも殿下に向かって鞭を振るったな」
整った顔を怖いと思ったセラフィは多分間違っていない。その後ろからやってきたカリナがセラフィを後ろから抱きしめた。
「殿下……」
「もういい……、許されなくてもいい。ここから出る! もう、やだ!」
「あなたの居場所など、ここには――ギャッ!」
アレクシスはネグレスの首を掴み腕で締め付けた。静かになったネグレスを荷物のようにどさっと転がし、セラフィに近づいてきた。
「来ないで!」
さっき魔力を集めようとしたせいか身体の中が熱くて、グルグルと力が渦巻いていた。この離宮なら大丈夫だとネグレスは言っていたけれど、ネグレスを信用してもいいのかセラフィにはわからなかった。
「アレク! 身体が熱い――。暴走してるわ」
カリナの焦ったような声でアレクシスは近づくのを止めた。
「二人ともどっかに行って!」
それでいい。距離をとって離宮から逃げて欲しい。セラフィを守ろうとしてくれたアレクシスに怪我をさせたくない。
「震えてる……。私のことが怖いですか?」
アレクシスは暴走が怖くて止まったわけではなく、セラフィを怖がらせないために止まったのだと気づいた。セラフィが怖れているのはアレクシスではなく、セラフィ自身だ。
「怖い――っ、アレクシス……自分が怖いんだ!」
叫んだ瞬間、セラフィはアレクシスの胸の中にいた。
「怖くありませんよ。殿下は今までずっと我慢していたのでしょう? 今も必死に抑えようとしている。泣かないで――、私はあなたの涙に弱いのです。よしよし、頑張りましたね。偉かったですよ」
アレクシスはセラフィを片手で抱き上げて、首から回した手で頭を撫でた。そして寄せた頭の先にキスをした。
「ア……アレクシス」
「嫌でしたか? ご褒美のキスは頭でいいんですよね、カリナ」
「……そうだけど、ビックリして殿下が固まってるわよ。暴走が収まったようでよかったけれど」
アレクシス達の家ではいい子にご褒美のキスがあるらしい。何だか胸のあたりがあったかくて気持ちが良くて、セラフィは瞼が重くなってきた。
「殿下?」
「寝室を用意してください。魔力を急に使ったから疲れたんでしょう。私はこのゴミを捨ててきます」
セラフィはネグレスを見なかった。人形のように転がっているのをみるのが怖かったからだ。一つ間違えば、そこに転がっていたのはセラフィのはずだった。
セラフィは、カリナに抱かれて部屋を出た。
「どうして」
セラフィは、今起こったことが信じられず、夢か何かではないかと疑った。挨拶して二時間も経っていないのに、護衛騎士見習いがセラフィを救ってくれるなんて夢かお話以外の何物でもない。
「殿下?」
「アレクシスはどうして僕に親切なの?」
従姉弟ならもしかして理由を知っているかもしれないと思って尋ねた。
「親切、というのでしょうか。アレクシスは、ずっと殿下に会いたいと言っていました。殿下の護衛騎士になるのを目指してがんばっていたんですよ」
「アレクって呼んでた」
「家ではアレクって呼ばれています。先ほどは焦っていたので癖がでました」
アレク、とセラフィは口に出した。
「どうして会いたかったのかな?」
カリナは少し顔を歪めて、ため息をついた。
「それはアレクシスに聞いてください。本人に聞くのが一番早いですからね」
「うん、カリナもありがとう。部屋の前で待っててくれたんでしょう?」
「心配だったのですよ。アレクシスが何かやらかしそうで。暴走したのは殿下でしたけど。さぁ、少しお休みください」
今まで見たことのないような優しい顔でカリナはそう言った。
「おやすみなさい。アレクシスもカリナもいなくなっちゃうかもしれないけど、嬉しかったよ」
セラフィは何度も諦めてきた。大事なものは自分の掌からこぼれていく。けれど、アレクシスやカリナのことは一生わすれないと決めた。
「いなくなりませんわ。殿下、安心して――お休みください」
ポンポンと上掛けを叩かれた。心地いい振動は魔法のように、セラフィに優しい眠りをもたらした。セラフィは沈んでいく意識の中で、悪夢はきっと見ないだろうと信じられた。
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