喧噪の庵

てると

都市閑居者への道

 高居吉成は、神だけを愛し、世界を信頼する、孤独を楽しむ修証一如の信仰者を目指して、聖霊に満たされた孤独を手に、原始仏教聖典を読み始めた。


 吉成は、「この世とかの世とをともに捨て去る」ようなキリスト教があってもよいのではないかと考えた。すなわち、フィクショナルな領域で、宙づりに永遠の生と最後の審判を信じ、実際の現実性の強度の高さでは、より強く、滅却を信じるのである。そして、愛は、人格に対しては神以外に向けず、ただ神のみに向けていくのである。そこで、人格以外との楽しみは確保されることになる。すなわち、創作や思索、運動や活動は、それ自体楽しみとして確保されるのである。吉成にとっては、人を愛しすぎることが問題だった。


 吉成は、「諸々の生存状態のうちに堅固なものを見出さない」とは、世界内に根源を見出さないことだと解釈するようにした。すなわち、根源は世界の外にあるのである。わたしの生のうちに根源はない。わたしの生の根源はわたしの外に外在しており、わたしは知らずわたしは生きる、常に生かされ続けているのである。


 吉成はある箇所に目が留まった。

「世間における一切のものは虚妄である」、これがよくわかったのである。吉成にとって、確かに世間で言われている様々なこと、また世間に対する自身の解釈は、すべて動作の手がかりに過ぎない虚妄に映っていた。


 仏教は一般に「一切皆苦」の思想だと言われるが、それは「思い通りにならない」という意味であって、しかも自己形成していく人生ならば、思い通りにならないなかで辛うじて自己形成を続け、やがて苦悩の矢を抜き去られ、悩みのない状態になることを、吉成は、そのような境地があることを信じていた。


 牛飼いダニヤとブッダは、「神よ」と呼びかけ、「雨を降らそうと思うなら、雨を降らせよ」と述べていた。この、「神よ」には、吉成は心惹かれた。ブッダも、実は、「神よ」と呼びかける人であった。


 悪魔が言う。

「子のある者は子について喜び、また牛のある者は牛について喜ぶ。人間の執着するもとのものは喜びである。執着するもとのもののない人は、実に喜ぶことがない。」


 ブッダは答える。

「子のある者は子について憂い、また牛のある者は牛について憂う。実に人間の憂いは執着するもとのものである。執着するもののない人は、憂うることがない。」


 吉成は、以前読んだときにこの箇所に「そうだよな」と賛同したことを思い出した。あまりにも素朴で、当たり前のことを言っていると思っていたが、改めて問題意識を持って読んだところ、この世的な喜びに執着させようとする声を「悪魔」と断じているところに意識が向かった。


 ここまで作業をして、吉成にある確信が去来した。すなわち、この知的作業はいつでも始めることができ、だからこそそれまでは身近な人間を信頼し、友愛と活動を共に楽しんでいけることを…、すなわち、愛し、互いに成長することへの信頼を。

 


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喧噪の庵 てると @aichi_the_east

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