第2話 いつか飼う犬の話

 佐藤さんは独立してどれくらいなんですか、と聞かれて、咄嗟に正確な数字が出てこなかった。二年くらい、と答えてから、本当は三年をとっくに過ぎていたことを思い出したけれど、わざわざ訂正するようなことでもないとそのまま別れた。帰り電車に揺られる頃には、家を出るときに買って帰ろうと考えていた消耗品がなんだったのかということで頭が一杯になっていた。


 思い切りがいい性格ではなかった。在宅の仕事に変えようと決めた折にも、それなりに悩みはした。元々は都内から若干外れたところにある小さな会社で、金属加工を行う工場の事務所に勤めていた。そこでは文字通り金切り声のような機械の音が四六時中鳴っていて、それを聞きながらPCと向かい合い続けた。入社一年目で業務上以外の会話を諦めたぼくには、事務所が無音じゃないことがむしろ救いですらあった。数年勤めた末、ぼくは会社を辞めた。

 会社勤めをしていた頃に比べて預金は減ったけれど、毎月の報酬は二年かけてはじめて以前の収入を上回った。苦労も多いが、満員電車での通勤や継続的に人と関わることが苦痛な自分にとってこれ以上の贅沢はなかった。


 打ち合わせから帰ってくると、芽衣子の姿はまだなかった。一度帰ってきてでかけたような気配もない。先週末に休日出勤した分、今日半休が取れるかもと言っていたが無理だったのだろう。

 テレビをつけると、緑色の壁と目を閉じたくなるような青。球場が映し出されていた。アルプススタンドいっぱいに立ち並ぶ白い制服、鮮やかな黄色いメガホン。吹奏楽の賑やかな音がスピーカーから溢れ出す。それを眺めながらパソコンを立ち上る。アイスコーヒーを作ろうと思ったけれど、冷凍庫を開けると氷がひとつもなかった。

『仙台育英勝ってるよ』

 仕事を始める前に芽衣子にメッセージを送った。プロ野球にも高校野球にも明るくないぼくでも、甲子園の常連である仙台育英学園高等学校の名前くらいは知っている。芽衣子も野球に対する熱意はぼくと大して変わらないけれど、仙台育英のプレーが流れているときだけは絶対にテレビを消さなかったし、今日の決勝戦の時間を調べていることも知っていた。仙台育英のある宮城県仙台市は、芽衣子の生まれ故郷なのだ。

 故郷って言っても、三歳くらいまでしか住んでいないけどね。芽衣子はなぜか申し訳なさそうに言った。母親が亡くなって、父親の仕事の関係で別の地方に移って二人暮らしをしていたらしい。遠州灘を臨む湖西市にいた母方のおばあちゃんが時々様子を見に来てくれるのが、少し気まずかったけど嬉しかった、と芽衣子は笑った。


 しばらく仕事に集中したあと、携帯を見ると芽衣子から返信が入っていた。

「今日こそは帰ったら扇風機の掃除をしよう」

 彼女からの返信にはいつも脈絡がなくて、ぼくと芽衣子のそれぞれが個々に要件を送り合っている、という形になる。余計なことは言わないけれど、余計な話は積極的にすべき、というのは、ぼくらが付き合い始めて間もない頃に彼女が言った台詞だった。まるでそれを形にするみたいに、彼女は今朝の占いの結果やお昼にお弁当を買った専門店のこと、休憩に入ったカフェの隣の席にいた女子高生の彼氏の名前に至るまで、様々な瑣末事をメッセージで飛ばしてきた。今はもうそれほど細かな報告をする必要はなくなったけれど、不意に思いついたことや考えたことが、ぽつぽつと通り雨のようにぼくに降り掛かった。

 扇風機の掃除だって、一緒に住み始めた頃にした冗談みたいな口約束だ。冬にふたりでひとつの部屋を借りて、そんなことすっかり失念していた一年目の夏、ぼくはピカピカに磨いて風切り音が静かになった扇風機の前で芽衣子に叱られていた。仕事が忙しい芽衣子を喜ばせたくてやったことだったのに、どうしてひとりでやっちゃうの、などと言われてはさすがに気がささくれ立つ。それが一緒に暮らしはじめて最初の喧嘩だった。

 扇風機、夏になる前に掃除しなくちゃね。ぼくが羽を拭くよ。じゃああたしがカバーの埃をはたくね、なんて。あんな口約束、律儀に守らなくてもいいのに。言い出しっぺのぼくはなんだか申し訳なくなって、変な顔をした猫のスタンプを芽衣子に送った。


 思えば彼女とした約束事は多い。家事の分担やお金の管理など居住に関することはもちろん、いつか犬を飼おう、というのもそのひとつだ。

 僕も芽衣子も、犬を飼ったことがない。芽衣子に関しては祭りで取った金魚や、小学生のとき近所の男の子に取ってもらったクワガタくらいしか世話をしたことがないという。かくいう僕だって、生き物は妹が誕生日にねだって買ってもらったハムスターくらいしか経験がない。心配事は挙げればキリがないけれど、ふたりとも「生涯に一度くらいは」と思っていたところで一致した。

 引っ越しの荷ほどきもそこそこに、近所の本屋で犬の飼い方に関する本を買って読んだ。ぼくも芽衣子も知識が漠然としすぎて使い物にならず、ネットの海で学ぶには意見が多種多様すぎた。それなら本を一冊読んでしまったほうがいい、という学生時代の参考書と同じ結論に至ったのだ。

 子犬が社会に馴染めるかどうかは生後半年ほどで決まることも、人間と同じように目や耳が老いてゆくことも、ぼくらはちっとも知らなかった。人が老いることにさえ目を背けたくなるのに、犬が老いることになど考えが及ぶはずもなかった。戦々恐々としながらも、しかし飼うのをよそうとは互いに言わなかった。

 飼育用具の下見をし、家に迎え入れられるように整えるまでにそれほど時間はかからなかったが、肝心の犬探しが難航した。それまでに彼女の繁忙期が三度終わった。そのうちに犬を飼うなんて話すらなくなるのではないかと思ったが、芽衣子は決して忘れたりしなかった。

 しかし彼女の仕事が忙しいのも確かだった。外資系の商社に勤めていて、残業も多ければ出張は月に平均して二回ほど。その出張も予定通りに終わらないことがザラで、金曜日には帰れるはずだったのが日曜日の朝起きてみると隣で芽衣子が泥のように眠っていたことが何度となくある。賢明な人だから、ひとり暮らしなら絶対に生き物なんて飼わなかっただろうが、その点は在宅仕事のぼくがカバーするということで話がまとまった。芽衣子は「本当に大丈夫なの」と半信半疑ながら嬉しそうだった。

 いつになるかは分からなくても、いずれはきっと飼う。それがぼくたちのささやかな約束だ。

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