ロビンソンの飼い犬

片岸いずる

第1話 夢の骨格標本

 芽衣子が両手指にマニキュアを塗っているとき、ぼくは決まって彼女にくだらない話をする。

 ヤスリで丁寧に整えた指先に神経を集中する芽衣子の左の手は、すでに薄いピンク色に染まっている。右はまだ一本目を塗り始めたところで、爪の色が若干の不健康を証明するように白かった。ぼくは母親の腕を引っ張る子供みたいに、芽衣子に喋りかける。

「夢でしか行けない場所ってない?」

 一瞬彼女の動きが止まったように見えたけれど、返事はない。ぼくは構わずに続ける。

「現実にはそんな場所見たこともないはずなんだけど、あれこの場所知ってるなって思ったら前にも行ってるんだ、夢で。なるほどここがぼくの深層心理か、なんて考えてると、次に出てくるのが博物館なんだ。

 それもかなり小さくて、一戸建てくらいの大きさしかない。なかに入ってもせいぜい十二、三畳くらいの広さだし、外側から見たときは二階建てに見えたのに階段はどこにも見当たらないんだ。そのうえ所狭しとガラスケースが並んでいるから、人が動けるスペースはほとんどない。

 大抵は両手に乗せられるくらいの小さなケースが並んでいるけど、棚の奥には人の顔くらいの大きさのものとか、壁際には天井に届くくらい背の高いものなんかもある。中身は、そうだな、名指しできるほど統一性のあるものには見えなかった。ほんとうに雑多なんだよ、割れやすそうなティーカップの隣にボロボロの野球帽があったり、古そうなゲーム機、子供のおもちゃみたいな指輪、新品らしいパソコン、ちょっとくたびれた雰囲気のベージュのワンピース。ぼくにはどういうつながりで集められているものなのか、さっぱりわからなかった。

 部屋の隅には古い作業台みたいな机と、同じくらい古い椅子があって、そこには髭面の男が座ってた。おとぎ話に出てくるような優しいかんじのおじいさんじゃなくて、もっと普通の、定年退職して髭も剃らなくなったようなくたびれたやつ。

 おじさんはこっちが喋らなくても、勝手に話し始める。

 ここは夢の骨格標本を集めた博物館だ、って。

 そこでようやくぼくがおじさんの手の中の小さなガラスケースに気づいて尋ねると、おじさんは嬉しそうに

『これはおれの標本だ。昔、海洋生物学者になりたかったんだ。でも俺の家には金がなくて、いつまでも勉強ばかりしているような余裕はなかった。大した仕事につけなくても、働く以外に選択肢はなかった。三十くらいまでは弟と妹の面倒見て、嫁さんをもらってからは家族を養うために、子供ができてからは子供たちを大学まで出してやるために。気がついたらこんな歳だ。可哀想だろ』

 そう言いながらおじさんは手のなかのものを見せてくれた。白くてコツコツした、小さな塊だった。ぼくがそれを不思議そうに眺めていると、おじさんは『幻の鯨だ』と言って笑った。

『お前、知ってるか? 深海には調査隊が入るたびに新種の生物が見つかるし、アメリカの研究チームは千年のときを超える、正真正銘の生ける化石が海の底に存在すると予想している。

 なかでもクジラは神秘的な生き物でな、クジラ構文と言われるだけあって、彼らは水の中では息ができない。それなのに未だUFO並みに実態がわかっていない種類がいくつもあるんだ。人間と同じに、空気中からしか酸素を取り込めないのにだぞ。彼らがどこで生活し、どんな声で話して、どう生きているのか。この同じ地球上に暮らしていながらまるでわからないなんて、不思議だろ』

 おじさんは渇いた唇を舌で濡らしながら話した。その口ぶりは、海洋生物学者というよりは、小学生の頃に図書室にあった、漫画で読める伝記に出てくる冒険家みたいだった。半分と少ししか開いていない目が、陽の光の差さない埃っぽい部屋のなかでゆらゆらと光っていた。

 おじさんは手のひらに乗せた白い塊を嬉しそうに眺める。なんでもニュージーランド周辺で、たった一度だけしか目撃されていない謎の多いクジラの骨らしかった。

『どうだ、すごいだろう』

 自慢気に顎を上げて右手を差し出す。よれたワイシャツの襟元が薄っすらと黄ばんで、それがすごくリアルで、ぼくはなぜかそれが少し怖かった」

 話し終えて彼女の右手を見ると、爪先はすっかり均一に染まっていた。表面がつやつやして、天井から降る光を何倍にも増幅しているみたいだった。

「それからどうなるの」

 マニキュアの蓋をくるくると閉める芽衣子の指先は器用に空気以外を触れさせない。実家にいる頃、ふたつ下の妹がマニキュアを塗るとすぐによれさせて騒いでいた記憶があるけれど、芽衣子の指先はいつだって完璧だった。

「ないよ。大体いつもここで終わり」

「オチはないの?」

「夢なんだから」

「えーつまんないね」

 芽衣子が口をへの字に曲げて、僕が眉毛でハの字を作る。芽衣子のほうが先に表情を崩し、ふたりで途切れるまで笑う。

「そういう夢を時々見るんだ。いつも同じ隠れ家みたいな博物館で、おじさんは大抵クジラについて喋ってる。どうして幻とまで言われる鯨の骨をおじさんが持ってるのとか、そもそも夢の標本って何なのかとか、どんなおかしなことがあっても、その場では絶対に質問にならないんだ。おかしいよな、夢だからかな」

 薄茶色のクッションにもたれかかると、芽衣子はまるで犬が服従を示すみたいに両手を軽く挙げたまま身体を投げ出した。まだぬかるんだ薄桃色が透明に光っている。

「どのくらいで乾くものなの」

「まだしばらくかかるよ」

「綺麗な色だね」

「そうかな」

 返事をする芽衣子のまぶたが半分閉じかけていて、つられてぼくも彼女の横に寝そべる。芽衣子は静かに左手をぼくの腹の上に置きながら

「あーあ、明日も仕事だ」

とひとりごちた。

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