第3話 夜の中

 家のリビングでPCに向かっていると、芽衣子が帰ってきた。ただいま、という声はいつも通りでも、目の周りがうっすら浅黒くなっている。一回も化粧直ししないとパンダになるんだよ、両手の親指と人差指で作った丸を目の縁に当てながら教えてくれたのはいつだっただろうか。今夜の彼女にそんな余裕はありそうになかった。

「今日は夕飯まだなんだ」

 ぼくが言うと芽衣子は責めるでも、おどけて一緒に作ろうと言うのでもなく、返事にならない返事をした。なにかを言いあぐねているのがわかった。相談なんだけど、とようやく口を開く。嫌な予感がする。

「ごめん、来週末の予定ってずらせないかな」

「週末ってうちの実家に来るやつだよね」

 芽衣子が小さくうなずく。そのままうつむいたまつげにいつもなら絆されるのに、その日に限ってぼくにもそんな余裕はありそうになかった。

 納品まで終わったはずの会社と突然、連絡が取れなくなった。直近まで連絡を取っていた担当者のメールアドレスはもちろん、会社の代表メールも、電話もすべて空振り。大きな会社ではなかったが、何度か取引していて不安に思うようなこともなかったから油断していた。

 焦ったぼくは同業の知り合いや、事情を知っていそうな人に片っ端から連絡を取った。段々と詳細がわかりはじめたが、予想した通り最悪の結果でしかなくて調べるのを辞めた。代わりに先日送った請求書をPCから引っ張り出して見る。ここ二ヶ月間かかりきりだっただけに額が大きい。なにも言葉が出なかった。

 ソファの横に置いた芽衣子の鞄が倒れる。彼女は「ごめん」と小さく謝ってそれを起こした。

「もう二回も日付変えてるよね」

「うん」

「また仕事の予定?」

「うん」

「休日出勤?」

「…前日に出張が入っちゃって」

「泊まりの予定なの」

「日帰りだけど、念のため宿も取ってるから、たぶん」

 そこで言い淀んだ芽衣子に思わずため息が漏れた。無意識だったが、心の余裕がなければこんなものだ。

 もともとぼくの実家に行く予定が土曜日だった。ということは金曜日から出張。今までの様子からして、土曜日の昼には間に合わない可能性が高いのだろう。事実、帰宅の予定を大きくはみ出し、日をまたぐことが何度もあった。芽衣子もそれを悟って相談を持ちかけてきたのだ。

 立ったままの芽衣子を見ると、髪と肌が薄っすら濡れていた。夜中から雨の予報だったのが、思ったよりも早く降り出したらしい。芽衣子の肌は透き通るように白く、首筋にかかる湿った髪の毛が嫌に艶っぽい。彼女のそういう部分をぼくは久しぶりに見た気がした。

「最近帰りも遅いし、出張も休日まで長引くことが多いよね」

「うん、だからごめん」

 芽衣子は半ば振り切るような語気で返事をした。謝られたら、それ以上なにも言えないことくらいわかっているはずなのに。

 もうしばらくの間、芽衣子と一緒にご飯はおろか、同じ時間に寝付くことすらない。当然触れることもない。むしろ彼女自身がそれを避けているのではないかという気さえしてくる。

 芽衣子はもう一度謝ってから「極力早く帰れるようにはする」と言って部屋を出ていった。箪笥代わりのカラーボックスを並べた寝室へ入っていったあと、脱衣所のほうで物音がした。

 僕は以前取引のあったところに何件かメールを出し、最後には半ば諦めた気持ちでPCの電源を落とした。薄いカーペットの上に寝転がると、目が疲れていたのか動くはずのない白い天井の模様がうじゃうじゃと波打って見えた。

 ぼくが悪かったのだろうか。あそこで、優しく「気にしないで」と言えたら良かったのだろうか。考えても思考は極端なほうにしか傾かず、遠くで聞こえるシャワーの音で我に返る。

 芽衣子はまだ出てこない。彼女にとって入浴は日々の憩いらしく、一時間くらいこもる日も珍しくはなかった。ぼくもそれを知っているから極力浴室周りには近づかないようにしていた。どんなに親密な仲であっても踏み込むべきでない場所というのはあるし、かくいうぼくも同じようなタイプの人間だった。集団行動にはいつでも息が詰まった。他人と長時間一緒にいることができない。疲れる、とか、気詰まりだ、というよりは不可能というニュアンスに近い。当然、人から理解を得られることは少なかったけれど、自営業になってからはそういう人にも時々出会うから救われる。

 ぼくは胡座をかいていた足を伸ばし、ゆっくりと立ち上がった。意図せず芽衣子が入浴中の廊下を歩くような静かな動作になる。そういう仕草が身体に染み付いている。きっと彼女もそうだろう。ぼくが彼女を気遣って近づかないと思っている。信頼ゆえの無防備が頭の中でささくれ立つ。

 膝やふくらはぎを丁寧に伸ばしてから、足音を立てないように進む。マメな性格の芽衣子のお陰でリビング以外の電気はきちんと消えており、廊下は薄暗く玄関は闇に黒ずんでいた。擦るような足音のあとをぼんやりとした影がついてくる。なぜか誰かに追いかけられているような気になったが、構わずに進んだ。シャワーの水流がタイルを叩く音が反響している。

 仕事が忙しいせいもあるのだろうが、芽衣子は基本的に携帯を手放さない。リビングで寛いでいるときや寝室で休む際も、きちんと置き場所を決めている。そこにないと気づくとすぐに探し始める。もちろん入浴中も持ち込んでいるが、シャワーのときはさすがに浴室に置いておくわけにはいかない。

 気がつくと、静かにスライドドアのへこみに手をかけていた。ここを開ければその先には、ぼくの知らない芽衣子がいる。まだシャワーの音は鳴り止まない。今しかなかった。

 段々と暗さに慣れてきた目で想像する。芽衣子の細い腰にくっきりとついた跡。あまり大きく声を上げない彼女の目の端には涙がにじむ。唇に触ると無意識に食いしばっていた強張りがほどける。ぼくの知っている芽衣子。それが本当の彼女なのかどうか。

 脱衣所の光が細く廊下を割く。眩しさは感じないが代わりに刺さるような違和感があった。本当の彼女って、なんだよ。

 ぼくは慌ててわずかに開いた扉から手を離した。少ししか開いていなかったからか、ほとんど音も立てずに光は吸い込まれるように消えた。それよりも数秒遅いかというタイミングでシャワーの音が止んだ。

 信じる、という言葉は便利だ。釘打ちにも紙面のない契約書にもなる。裏切っても死なないが、どこしらはきっと腐り落ちるだろう。

 リビングに戻ると、部屋の隅に段ボール箱が積んである。片付け魔なところのある芽衣子から唯一そこに置くことを許されたのは、すべてまだ飼ってもいない犬のための飼育道具だ。ぼくは途端になにを信じたらいいのかわからなくなる。こんなことははじめてだった。はじめて。いや、本当にそうだろうか。

 芽衣子と付き合ってから、今年の春で五年を迎えたはずだった。薄情だと言われることも多いが、ぼくらの間には記念日というものがない。わざわざ特定の日を特別視する必要もないだろうというのがぼくと芽衣子の総意だった。平坦な日常の中でそれなりにぶつかったこともあったけれど、こんな風に相手を巧妙に避けるような距離感ははじめてのはずだった。

 なのに彼女のあの顔を、あの冷めた目元の暗さに覚えがあった。あれはいったい、いつのことだったのだろうか。

 そのうち廊下のほうからカラカラと音がした。磨りガラスの向こうにモザイクがかかった芽衣子の姿が浮かぶ。ぼくはリビングの真ん中に突っ立ったままそれを眺めた。輪郭がなくても細身だとわかるシルエットに、また少し痩せたかな、と思う。彼女はなかなか入ってこない。

 それどころか、モザイクは段々と不鮮明になって闇が滲んでいく。まさか出て行こうとしているんじゃないだろうか。あのときも、彼女はそうやって消えたんじゃなかっただろうか。

 動悸がするのに、ひどく手が冷たかった。あのとき、を思い出そうとするたびに頭のなかが無理やり引きずれ出されるみたいな感覚に陥る。早く芽衣子を追いかけなくては。そう思うほどに身体が引き攣れ、激痛が走る。痛くてどうにかなりそうだった。両手でかきむしるように髪や顔、首筋を擦る。どうにもならない。カチャ、と玄関で鳴っているはずの錠を開ける音が、なぜかすぐそばで聞こえた。

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