ある少女

@sasakure5

第1話

 くもの巣に塗れた夜空の下。身動きを取れなくなった虫たちが必死に蠢いている夜空の下。汚れがこびりついた建物たちが所狭しと入り組んだ路地にて、私はただ、私を虐げようとするものから逃げ続けていた。振り返って追手の姿を確かめる余裕や息を整える時間は微塵も無い。痛みに立ち止まっていられるほど甘い状況でもない。とにかく逃げなければならない。このまま五体満足で生きる理由なんて、両親も故郷も失った今となっては酷く弱いものとなっているが、それでも、死にたくないという気持ちが断固として私に根付いていたから、私はただ逃げ続けていた。細い道を、奴らが追ってこれないように細い道を。奥へ奥へと。

 やがて身体が限界を迎えて、なぜだか扉が開きっぱなしになっている建物の前の、汚れた地面にぶつかった。衝撃が引き、咄嗟に瞑っていた目を開けると、赤黒いものがべったりと地面に張り付いているのが分かった。血痕だった。

 辺りを漂う異臭が、体力を使い切った身体に浸み込んでいき、空っぽの胃を刺激した。空っぽだというのに、喉までせり上がってきた胃の中のものが、私の頭を支配する。ほんの少しでも楽になりたいという一心で、荒い呼吸をするのと同時に、上がってきたものを吐き出そうとして声を上げようとした。

 すると、建物の奥から足音が近づいてくる。その足音の主はやがて私に向けて声を放った。少年の声のような、低くはあるがどこか柔らかさを感じる声だった。

「なんだお前」

 咄嗟に声の方へと頭を動かし、喉のものをどうにか抑え込む。

 歪んでぼやけた視界の中央には、ひたすらに無機質な茶色の面を被った人間がいた。目元だけが開いている面で素顔を隠し、右手には大人が一人ほどすっぽり収まりそうな大きい袋が、左手には見たことのない道具があった。この人間の大きな身体を包む衣服には、私が今うずくまっている地面と同じ色が広がっている。

 ただひたすらに恐ろしい姿だと思った。この姿から響いてくる声が少年のものだとは到底思えなかった。獲物をおびき寄せるために若い子供の声を真似て助けを呼ぶような、幼い頃に聞いたお伽噺に出てくる怪物を思い出す。

 ここで死ぬのだと思った。彼の姿を見て、彼に話しかけられて、私は殺されるのだと思った。為す術などはまるで無く、私はただひたすらに呼吸を繰り返すだけだった。

 心身ともに疲弊していた私は、死の恐怖を感じていたこともあって、彼の質問に答えられないでいた。ただ体を震わせて、滲んだ視界を震わすことで精一杯だった。

「何をしにきた」

 何も話さないでいる私に対して、彼は、その視線をさらに鋭くさせて私を射抜く。まるで身体を刺されているかのように錯覚してしまった私は、これ以上痛い思いをしないようにと、往生際が悪い羽虫のように弁明をする。

「にげ、にげてきたっ」

「誰から、どこから」

 恐ろしい姿のままであるのは違いないが、私の言葉を聞いても態度を全く変えない彼から二つの質問を投げられた時、今は狼狽えている場合などではない、生きるか死ぬかの瀬戸際なのだと確信した。

「ひ、人さらいのところから」

「ああ、人攫いか」

  彼の視線はその鋭さを維持したまま私の身体を見つめるから、なんとか抑え込んでいた恐怖が溢れ出るように思えた。

「おいちょっと、誤解するな。今の俺はそんなものよりも金が欲しいんだ。というか、もう逃げなくて良いのかよ」

 その言葉を聞いた私は、しかし冷静になれていなかった。彼の話を理解しようとする意志を、絶え間なく湧いてくる疲弊と恐怖とが千切り続ける。

 何も言えず、ただ彼の周囲にあるものへと視線を回し、やがて彼の足下に転がっている死体を見つけた。陽が完全に沈んで辺りが暗くなっていたから、気づくのが遅れたみたいだった。

 そうか、この血痕たちは、そこから。

「逃げるなら逃げてくれよ。巻き込まれるのはゴメンだ。というか、そこ退いてくれ。死体を運べない」

 彼はそう愚痴りながら袋の中にそれを詰め込んでいる。

 何をしているのだ、何を目的としてそんなことをしているのだと、疑問に思うばかりだった。

 ずっとうずくまり、視線と肩だけをひたすらに動かして、涙をみっともなく流す私にとうとう我慢ならなかったのか、彼はとうとう怒ったような声を出した。

「なあ、これって一応仕事だからさ、終わらせないと金を稼げないんだよ。だから早くそこを退いてくれ」

 その言葉を聞いた私は、依然として恐怖心に縛られていた。

 縛られながらも、彼の言葉を拙いながらに頭の中で反芻する内に、悪態をつける程度の余裕を取り戻す。

 退いてくれと言われても、動きようがないのだから仕方がないのだ。

 息はまだ整っていないから、彼に見えるぐらいに大きく肩を上下させているし、私のこの苦しげな呼吸音も彼に聞こえているはずだ。だから、恐らく彼は、私が疲労困憊の状態にあって、すぐには動けないと分かっているのに、ああ言ったのだ。

 そう思えば、途端に怒りのような感情が湧いてきた。

 私は身体に鞭を打って、家の壁にもたれかかりながらどうにか立ち上がり、彼の眼を見た。ひたすらな暗がりの中で、面や髪の色と同じである、茶色の瞳が爛々と輝いているのが見えた気がした。

「やっとかよ。それじゃあ、頑張って生きろよ」

 彼は右手をヒラヒラとさせると、その手で死体の腕を掴んだ。私は思わず死体の腕を凝視する。生気などはまるでなく、ただ重たそうな肉塊、袋に詰めるのに億劫そうな肉塊、すぐさま腐りゆくであろう肉塊、それがかつて生物のものであったとは思えないほどの暗さを持つ肉塊。そして、肉塊が放つ明確な死の臭い。記憶に深く残り、根源にある恐怖を呼び起こすような、悍ましい臭い。

 この肉塊を認めた時、私は実感した。この世界から逃げることは出来ないのだと。私もじきにこうなるのだと。

 怒りが霧散し、絶望し、ゆっくりと意識を手放したその瞬間、言い様のない虚しさばかりに、私の全てが包みこまれた気がした。


 冷水が私の頭を打ち付けた。

 意識が浮かび上がってくる。身体の感覚が心臓を中心に広がっていき、やがて指の先まで広がった時、私は木製の小さな建物の中で横になっているのだと気がついた。特に拘束されることもなく。

「......ここは?」

「俺の家だ」

 ふと呟いた言葉に間髪を入れない返答が来る。

「うわぁ!」

 思わず驚いてしまった私は、つい悲鳴に近い声を上げてしまった。

「恩人に対する反応じゃないぞ。別にいいけどさ。それで、どうするつもりなんだ?」

 ゆっくりと、声がする方に顔を動かす。するとそこには、面を被ったままの彼の姿があった。血痕がびっしりと広がっていた服はもう着ていなかった。

 ところで、私はどうしてこんなところにいるのだろう。本来なら、あの路地裏に転がったままで、私のことを追っていた奴らに捕まっているはずなのに。

「あのさ、話聞いてる?」

「え、あ、うん」

「じゃあ質問に答えろよ。どうするつもりなんだ、これから」

 これから。

 これから...?

 私は”これから”よりも”これまで”を知りたいのだけど、彼の纏っている雰囲気を見るに、そうも言ってられないだろう。もしここで彼を怒らせでもしたら、今度こそどうなるか分かったものではない。

 ああ、そうだ。分からないのだ。

 ひとまず、私のことを助けてくれたであろう彼のことを数えないとすれば、そして私の油断でないのならば、恐らく私は、私の命を脅かす者たちから逃げられたのだ。

 だからこそ、これから私という人間がどうなるのか、分からない。私が逃げたのは、ただ単純に、生きていたいという曖昧模糊な願望があったからだ。明確な目的があったわけじゃない。

「......分からない」

 同じ言葉ばかりが渦巻いている。

 まだ身体に疲れが溜まっているみたいだった。まさか本当に生きていられるとは思わなかった。よく分からない浮遊感の中で、疲れと非現実感に包まれる。

「分からない、か。一番来てほしくなかった答えだな」

 彼はそう言って天井を仰いだ。その時、面に覆われていない耳や喉が見えた。よく見てみれば、耳には細い紐が掛かっていて、喉仏は私の方を向いて強く突き出ている。

 何故、彼は私をこの建物まで運んできてくれたのだろう。彼は、何か私にしてほしいことがあるのだろうか。彼が天井を仰いでいる間、私はどうしようもないので、ただ疑問ばかりを募らせていた。

 ふーーー。

 彼は大きく息を吐くと、錨を海の中に落とすかのように、面の穴から覗く茶色の双眸を私へと向けた。

「手伝え」

「え、何を?」

 頭と口が繋がったように、思ったことをそのまま口にしてしまった。だって、あまりにも突拍子が無かったから。

「俺の仕事だ。見ただろ。死体の片付けとか、街の掃除とか、そういうのだ。ここにはとある施設があるんだが、その中に掲示板っていうのがあってな、そこで仕事を受けてる。それを手伝え。金は分ける。人手が増えれば稼げる金も増えるだろうからな」

 何を、と聞いただけで、今までとは打って変わって饒舌に話し始める彼の様子を見ると、この言葉は本気なのだと思った。

 続けて、彼はその気合の入れ様を私に示した。

「ここに運んでくるまでに分かったことだけど、お前、身体が強いだろ。考えてみれば当然だ。そうじゃないと、人攫いの下から逃げることなんて出来やしない。お前がどれだけの距離を逃げて来たのかは知らないけどな。それに、多分勘も良いんだろう。ここら辺は道が相当入り組んでて本当にめんどくさいから、逃げ込む場所としては最適なんだ」

 勘の方は知らないが、私の身体は強い。これは本当のことだ。私は村の中で一番身体が強くて、村の誰もが持ち上げられないものを軽々と持ち上げられたし、誰よりも長い間走り続けることが出来たし、幼い頃にしたことのある子供同士の喧嘩では、それが暴力沙汰にまで発展した時、一度も負けなかった。相手が歳上であろうと、どんな獲物を持っていようと、必ず負けなかった。口喧嘩の方はずっと負けっぱなしだったけど、とにかく、身体を使うことには自信があった。

 私が得意に思っていることが、出会ったばかりの彼に認められたという事実が奇妙に思えた。これをどのように利用されてしまうのかと、今までの不安とはまるで気色の違う不安を感じる。

「それで、どうするんだ。手伝うのか。金はしっかり払うぞ。働きに応じて、だけど」

 だが、彼が口を開くのと同時に、私はその不安を吹き飛ばした。今現在、そういった不安は邪魔にしかならない。

「……」

 不安を無理矢理に吹き飛ばした後、現状を整理することにした。

 私には金も、身分も、知識も、家も、何もかもがなかった。あるとすれば、今は亡き両親がくれたこの身体と、今着ている襤褸の服だけだ。こんな状態で街へと出ていけば、少しは逃げられるかもしれないが、どうせすぐに死ぬ。つい先程、彼が袋に詰め込んでいたような暗い肉塊になる。

 やはり、そうなるのは断固として嫌だった。

「手伝う」

「よし。じゃあ自己紹介だ。俺はタサキリ。ここは今から俺達の家。お前の分の寝床はまだ無いが、食べ物はある。とりあえず食おう」

「えっ?」

 その変わり身の早さに呆けている内に、彼は今までつけていた面と口に当てる用の布を外しながら私に背を向けて、靴の音を響かせながら歩き、棚の前で立ち止まると、屈んで、ガソゴソと音を立てながら幾つかの芋を手に掴み、それを私の方に向かって投げてきた。

「皮についてる汚れは大体落としてるから、後は適当に皮を剥いて、適当に火で焼いて食え。この家の裏に道具置いてるから」

 凄まじく雑な様子でそう言い放った彼の表情は、思っていたよりも子供っぽかった。


 そして私は彼の仕事を手伝い始めた。

 最初、彼に案内されるがままに例の施設に入った時、入口の真正面にガタイの大きな男がいたことに少し驚いた。あの人がこの施設の所有者なのかと彼に聞くと、違うけど、大体そんな感じだと言われた。ここで待っていろ、と指示されたので、彼がテキパキと施設の中を歩いている姿と、私たちと同じ目的を持っているらしい人たちの姿をアチコチと眺めていた。彼から貰ったばかりの茶色の面に特有の視界に慣れる為でもある。

 二人で施設から出た後、目的地へと向かう合間に話をした。

 どうやらあの時の彼は、この掲示板に貼られた依頼をこなしていた最中だったらしい。

「これから一緒にやるんだし、今のうちに教えとくぞ」

 そう言うと彼は、身振り手振りを交えながら仕事の請け方を教えてくれた。しっかりと教えてやる、という気概が彼の全身から感じられて、微かに安心した。どうやら本当に、私のことを仕事仲間にしてくれたようだと思えたから。

 まず、受付所と呼ばれる施設のこと。この街に住む者からの仕事が集められるあの受付所には、私たちのような子供の為の仕事もある。こんな街にそんな都合が良いことがあるものかと疑いはしたが、そもそも今の私の状況が都合の良いものだし、私の何かを訝しむ様子に気付いた彼の補足説明を聞いて、すぐに納得できた。

「どっちにも利益があるんだよ。俺たちは仕事が得られる。依頼主たちは簡単だけどすごく面倒な仕事を押し付けることが出来る。しない方が双方にとって損なんだよ」

 確かに、私を捕まえた人攫いと、彼の言う依頼主という奴らは違う。そう都合が良いことも起こり得るのかと、納得するのはさほど難しくなかった。

 やがて彼の口から肝心の依頼の受け方が語られ始めると、私は神経を尖らせてそれを聞いた。それは私が思っていたよりも簡素なもので、これなら簡単に覚えられるだろうと安堵する反面、何か穴があるのではと不安になってくる。何か、外側からの力が加わると、それだけで全て、もしくは殆どが消し飛んでしまうような脆さが、彼の話した”仕組み”というものから感じられた。

 しかし、もしかするとこれは私の考えすぎかも知れない。何しろ、言い知れぬ恐怖がまだまだ心に巣食っているのだから。

 このままでは良くないことを思い出してしまいそうだったから、咄嗟に思考を切り替える。丁度彼の案内も一段落したところだったから、私は以前から気になっていたことを訊ねた。

「そう言えば、私が気を失った後、あなたはどうしてたの?」

 そこから、彼の身振り手振りは少し鈍くなったように見えた。後ろめたさのようなものを感じているのかもしれないと思うと、私が感じているよりも、彼は人間らしく、子供らしいのではないかと思った。もしかすると年下かも、とすら考えた。

「お前をあの家の中に入れて、そのまま放置して、あの袋を受付所に持ってった。そんで、裏にある敷地を借りて、あの男に見張られながら死体を焼いた。依頼はそれで終わって、金を受け取って、あとはお前を俺の家に運んでって感じだ」

 私は一度彼に放置された。その事実が判明しても、特に不満はなかった。だって、建物の中に隠してくれたのだから。路地裏に放置されたのではなかったから。彼は、私の命の危機を少しでも減らしてくれたのだ。ならば、感謝こそすれ、不満や憤りを募らせる必要は無い。

 でも、気になるものは気になるものだ。

「なんで私を一度放置したの?」

 私が訊くと、彼は言った。

「一度放ったらかしにしても大丈夫そうなら、運の方も強いだろうって思ってさ。どうせなら、一緒に金を稼ぐ奴は運とか勘が強い奴が良かったから。あと、素顔であの男に会うのが危ないと思ったから」

 一つ目の理由はよく分からないから置いとくとして、ともかく、二つ目の理由は本当のことなのだろう。彼が茶色の面をして顔を隠していたのには、どうやらあの男が関係しているらしい。

 ひとまず、私は彼の言うことを理解した。理解しないと、この先ついていくのは不可能だと思えたから。もしそうなったら、私はやはり死ぬしかない。

 彼がこの街での生活に慣れている様子を見て、多少は安堵したが、相変わらず不安は絶えず湧いてくる。だから、それに翳る表情と、ずっと抱えている恐怖とを、彼から渡された面でどうにか覆い隠す。

 私はこれから、彼の手伝いをして、その働きに応じてお金を貰い、生活するのだ。

 私は、生きる理由を考える暇もなく、生きることに必死になっていた。


 彼から服を何着も渡された。汚れてもかまわなくて、私の体型を隠せるぐらい大きくて、安い服。どこで買ってきたのかと訊くと、広場の方の露店、と答えた。茶色の面もその露店で買ったらしい。髪色と似ているからこの面を買ったのかと訊くと、その通り、と彼は言った。やはりどこか子供らしい。

 毎日、彼は悠々と仕事をこなしていた。自分が持っている力を余すことなく使うその姿が、堂々としていて勇敢だと思ったから、私は彼を見習ったし、彼のようになりたいと思ったから、彼から教えられることを必死になって覚えた。少しでも役に立ちたいから、身体が訴える痛みに耐えて、鍛え続けた。

 ある日のこと。あまりの筋肉痛と疲労とに倒れていると、街の井戸から汲んできて、煮沸、というのをしたらしい熱い水をぶっかけられて、みっともなく叫んでしまったことが、少し恥ずかしかったし、途轍もなく腹立たしかった。

「火傷、火傷する!クソ!ふざけるな!いくらタサキリでも!」

「ははは!それぐらいじゃ火傷しねぇよ!」

 なのに、彼の笑い声が絶え間なく聞こえてくるのが、今までにないぐらいに愛おしく感じた。

「待て!」

「嫌だよ!」

 私に様々なことを教えてくれる彼は、どこかの部分で私よりも上の位に在るのだと思っていた。この頃の私、彼の仕事の手伝いをして、お金をもらって、家に泊めてもらって、一緒に食事をしていた頃の私には、彼を神格化していた節すらあった。常に私の先をいき、私が進むべき道を明瞭に照らしてくれる勇猛さに、私はすっかり狂ってしまっていた。私たちの関係が始まってから数週間が経った頃に、この屋根の下で彼に求められたことも、その思いを助長させていたようだった。私の傍にいる彼を、絶対に離したくないとさえ思っていた。出会ったばかりの頃の態度などを懐かしいと思えるほどに、私は、私の道を照らしてくれる彼に狂っていた。過去が、現在の速さについて来れなくなっているような、ある種の満足感を得ていた。


 彼と出会ってから半年が経過したある日、一緒に大きな依頼を受けることになった。日銭にはまだ余裕があるが、こんなに大きな依頼は中々出ないから受けよう、と彼が言ったのだ。

「これ、どれぐらい読める?」

 そう言って渡された依頼書を読もうとした。


[△△広場で、くずれた、建物、清掃]


 だが、ここまでが限界だった。

「前よりも読めてるな」

「ほんと?」

「ほんと。意味も分かるだろ?」

「うん、要するに瓦礫撤去でしょ?」

「その通り」

 彼の言葉に、私は確かな歓喜の感情を覚えながら、一枚の紙をゆらゆらと揺らす彼の左手を眺める。

 少し口角を上げて、それじゃあ行くか、と言う彼の表情を見て、気合を入れた。この仕事を早く済ませて、この家に帰ってこようと意気込んだ。


 目的の広場は酷く荒れていた。時々いくつかの露店で小さく、そしてどこか殺気立ったように賑わっていたこの広場は、その四方を崩れた建物たちに囲まれていた。この惨状を目にした私と彼は少しの間目を見合わせて、やがて作業に取り掛かった。なぜ広場がこのようなことになったのか、気にならないでもなかったが、別にどうでもよかった。

 この広場の瓦礫を撤去するために集まった人は沢山いて、中には私たちと同じような年頃の人たちもいた。

「せっかくだから協力してさっさと終わらせよう」

 彼はそう言ってその人たちに向かっていった。 私はその背に向かって返事をして、追いかけた。

 彼と私は持参した丈夫な道具を使って、瓦礫を順調に撤去していった。彼が昔愛用していたという道具たちは、本当に使い勝手が良く、有り難いものだった。これらは、彼があの家に住み始めたばかりの時に、地下室というものを作るために使ったものらしい。一度その地下室を見せて貰ったことがあるが、丁度私たちが入れそうな空間があって、感嘆した覚えがある。一体どれだけの労力と時間をかけたのかと訊くと、丸一年、という答えが返ってきた。そしてこう愚痴った。

「でも使い道が見つからない」

 


「おぉ、これかなり良い状態だな。まだ使えるんじゃないか?」

 一息ついて広場を見渡していると、ある少年が中途半端に生き残っている家の中から大きなものを運び出そうとしていた。その様子が心配になり、手伝おうか、と言おうとした瞬間、その家が軋み始めた。陽に照らされて、数多の埃が呑気に舞っているのが見えた。

 轟音の直前、私が感受したのは、無数の叫び声と、少年の腕を引っ張って助け出した後、少年と入れ替わるようにして、家に潰されていくタサキリの姿だった。


「両脚、もう動かないって言われた」

 彼は包帯に巻かれた姿でベッドの上に横たわっていた。包帯には血が滲んでいる。

 あの少年は、この包帯と、胡散臭さに塗れた医者にかかれる程の金を私に出した後、どこかへ行った。私にはそれを追う気すら湧かなかった。

 重苦しい沈黙が続く。

 喉に詰まっている言葉を、このまま出していいものかと葛藤する。沢山の共同作業をして、一緒に生活して、互いを求め合った仲であるのだからといって、この言葉を口に出すのは…だからこそ恐ろしい。

 ふと、彼がゆっくりと口を動かした。この家に充満する毒々しい沈黙が、彼に強制したのだろう。彼の声音は苦しげだった。

「あの日、お前を助けた時さ、本当にただの気まぐれだったんだよ。人手が足りないわけでもなかったし、少なくはあったけど、金が無いわけでもなかった。だからあれは、後先なんてまるで考えちゃいないものだったんだ。でも、なんか良い感じだったからさ、良い気まぐれだったんだって思ってたんだ」

 一息。

「なんで、こうなっちまったんだろ。計画性ってもんが、無かったからかなぁ。いや、もっと、俺が、俺が…」

 彼の言葉の殆どが頭に入ってこない。聞いていられない。

 やがて、この家は再び沈黙に支配された。

 俯かせていた顔を彼の方へ向けると、そこには、悲痛に歪むしかない彼がいた。

「ごめんな。俺、こんなになっちまった...。本当に、どんなことでもいい。正直に言ってくれ。俺は、お前の足手纏いにだけはなりたくないんだ」

 この弱々しい言葉を聴いて、のどに詰まっていたものが爆発した。耐えられなかった。

「あなたは、もう、私の前を歩いてくれないの?」

 自分でも分かっていた。この言葉は、身体の自由を奪われた今の彼をまるで見ていない言葉だと。過去ばかりを見る言葉だと。少年を助けるために動いた彼の気持ちを傷つけるだけだと。吐き気を催す程に醜い自分勝手な言葉だと。

 この言葉を聞いた彼は、私という人間を心から軽蔑するようになるかもしれない。だが私は我慢できなかった。私の前を燦々と照らしてくれていた光が、今消えようとしている。喪失感でどうにかなってしまいそうだった。消えるのだとしても、せめて黙って消えてほしくなかった。だから私は彼に言葉を求めた。

 彼は強い。私なんかよりも遥かに立派な人間だ。そう思っていたから、しばらく経ってからとうとう放たれた彼の言葉を、一瞬、理解できなかった。

「…無理だ。今の俺には無理だ。だから、選んでほしい。俺を見捨てるかどうかを」

 彼を、見捨てる、私が?

 頭の中に、誰もいなくなった家のベッドの上で、歩くこともできず、ただ排泄物を垂れ流しながら干涸びて死んでいく彼の姿が浮かび上がる。水も食べ物も手が届くところにはなく、助けを求めようにも、ここは街の隅、人気などはまるで無い。やっとの思いで絞り出した声は掠れていて、すぐに霧散してしまう。彼が今まで積み上げたものが、その土台から崩れ去っていく。その中には、私も含まれている。崩れていく私の目は、彼に向いていない…。

 彼は、私の恩人は、そのように無様で、哀れな姿のままで、死んでいくのか?私の目が彼に向かないのなら、私は何を見るというのだ…?

 嫌だ。

 彼がそんな姿で死んだら嫌だ。私が初めて出会った時のような、 汚れに塗れていても、異臭に包まれていても、その輝きを強く保っていたあの姿のままで生きていてほしい。そうでないと、私がこの世界を生きている意味が酷く矮小になってしまう。

 今の彼は輝きを濁らせている。死へと急速に近づいている。それだけは、絶対に駄目だ。何としてでも阻止しなければならない。

「見捨てない。一緒にいる」

「…本気か?」

「本気」

「でも」

「でもじゃない!」

 選んでくれと言ったくせに、まるで自分を見捨ててほしいと言うような彼の態度に苛ついて、声を荒げる。

「見捨てられるわけない!あなたは、あの時、私を!助けてくれた!」

「あ、あれは本当に後先を考えていなくて、助けたって言えるほどのものじゃな」

「あなたはあの後も私を助けてくれた。この家にも住まわせてくれた。水も食べ物も、お金を稼ぐ術も、服も、文字の読み方も、息をする場所も、全部あなたがくれた」

「それは、この一年間だけの話だ。俺の足はこれからずっと動かないらしいからっ」

「だったら、私に強くしがみついていて。腕は動くんでしょう」

 彼の言葉を遮って放ったこの言葉は、彼を私の傍へと縛り付ける言葉だ。信頼関係から生まれたものではない。利害関係から生まれたものでもない。恩義から生まれたものでもない。私の感情から生まれた言葉だ。彼の砕けた心の隙間から鎖を伸ばし、強く締め付けるような言葉だ。ただ自分自身の衝動に従って放った言葉だ。しかし、衝動というのは、その必要がなければ沸いてこないはずだ。だから、多分、これでいい。彼にはこの言葉が必要なんだ。

「…ごめんな」

 その夜ほど、彼の身体に力を込めた夜はなかった。

 改めて、彼を助けなければならないと思う。彼と一緒にいる為に…。

 だが、彼が動けなくなった今、二人分の生活費用に加えて、彼のための物を買うためのお金を、看病しながら稼がないといけない。

 手段を選んではいられない。

 私は知っている。普段通っているあの受付所の他にも、受付所があるということを。この街の奥深くにある、最も危うい受付所。そこには高額の報酬が約束されている仕事が沢山ある。それは人殺しの仕事だ。それをやるしかない。でないと、彼はこの街で生きていられない。

 計画性に欠け過ぎている。だからいずれ私は破滅する。でもそれは、彼と出会って、あの肉塊を見た時から分かっていたことだ。今更なんとも思わない。だから、なんとしてでも、私が破滅する前に彼をこの街から逃がす。

 彼が生きている世界で死んでいけるなら、私はもはやそれだけで良い。

 

 半年が経過した。

 せめて何かをしていたいという彼の要望に従って、指先だけを使う依頼をできる限り受けて彼に渡していた。しかし、そんな依頼は毎日のように掲示板に寄せられるものではなかったから、彼が稼げる金は殆ど無かった。

 そして、私は人を殺して金を受け取った。仕事はあっさりと受けることが出来た。特に必要なことは無い。人を殺す力があればそれだけで良いようだった。

 この仕事をするからには、こちらが血を吹き出すような場合もある。そのため、とにかく彼に見つからないように気を付けながら仕事をこなしたし、沢山の布を使い捨てた。顔を隠すための面も新しく買った。そして、人殺しの仕事をしていることが彼にバレてはいけないから、布たちは家から離れたところで処分し、面の方は彼の手が届かない家の裏に隠した。

 そう過ごしていく中で、血が布や身体につかないように努力したし、刃物の使い方を理解した。すると、慣れというものが私の中に生まれた。幸いというべきか、私にはそっちの才能があったみたいで、嘘みたいに上手くいくことが続いた。


 私は街を動き回った。

 仕事先で向け合う殺意。意志よりも大きな本能的恐怖。欲望を迸らせることしかできない暴力たちに囲まれ、その度に死に物狂いで突破する。人間が肉塊へと移ろう時の表情が日常にまで侵食する。最初は傷つけ過ぎていた人体も、今では必要最低限にしか傷つけていない。同業者との戦闘、尾行の振り切り。そして、ぐらぐらと疲労に揺れる私が家に入った瞬間にこちらを向き、痛々しい表情を浮かべる、ベッドの上の彼。

 この汚い街から自分の身を護るための外堀が、少しずつ埋められているかのような焦燥感に蝕まれていた私は、彼の唇を疲弊と欲望のはけ口とするほどに駄目になっていた。揺れる身体をそのままに、彼の上へともたれかかる。この行為は、私にとって希望のようなものにもなっていた。はけ口を希望とでも思ってしまえばおしまいだというのに、私はそれを止めることが出来なかった。

 私は既にある後悔をしていた。私にしがみつくようにしている彼の姿を間近に見ることで、あの時、人攫いから我武者羅になって暴れて逃げ出した意味が、薄れていく気がしていた。生きる意味は見つけられなくとも、死んでいく意味は見つけられたと思っていたのに、それさえも消えていく気がした。

 彼は私よりも先に死ぬのだろうか。

 もしも最初、あの時あの場所で私が死んでいたら、あの暗闇の中で死んでいたら、今のような光が消えていく恐怖などを知らなかっただろうと刹那だけ考え、すぐさま大して変わらないと自嘲した。

 私は目の前の微弱な光を必死に、そして暴力的に求め続けた。身体的有利は私にあったから、光を思うがままに出来た。

 行為がひと段落つくと、彼は水を飲ませてくれと私に頼む。寝たきりの彼の体力は徐々に衰え、前までは苦でもなかった運動が、激しい運動へと変わっている。水を飲みたくなるのも当然だろう。

 私の素顔と体格は、面と大きな布とを被っていたが故に殆ど割れていないので、近くの井戸へ水を汲みに行く程度の外出だけなら特に心配は無い。

 そして家の外で火を起こし、水を熱した。彼が言うには、この作業なしで水を飲むのは危ないらしい。

「はい、水。冷まそうか?」

「あぁ、ありがとう」


 一年ほどが経った。

 例の受付所にいる奴らとも毎日のように会っていて、私のことをハッキリと覚えられているだろうから、以前よりもさらに気をつけて家に帰らなければならない。絶対に彼を巻き込んではならないのだと肝に銘じながら帰路についていた時、なにやら小さな喧噪が聞こえてきて、意識をそちらへ向ける。

「おねがいします、どうか、どうか」

 身体の表面に骨が浮き出た男が、鎧を着た集団に縋り付いている。

 妙に既視感がある景色だ。そう考えて、思わず息を詰まらす。

 あれは、彼と出会ったばかりの頃の私だ。

 私もあのようにして、自身よりも力を持つ者である彼に、縋り付くようにしていた。この依頼をやらせてくれ、報酬をくれと、心の内であっても強く願い、乞うていた。彼がどう思っていたとしても、間違いなく、私はあの男と同じことを願っていた。同じものを乞うていた。

 私の性質は、あれからずっと変わっていないのだ。

 ところで、あの男性と私とで違うところはなんだろう。性別か、年齢か、身体の健康さや清潔さか。縋っている相手の人柄か、職業か。それとも、自らの容姿か。

 ...考えたところでどうしようもないことを考えてしまった。

 今すぐにこの場を去りたくなり、彼が待ってくれている家へと向かう足を速めようとした時、 集団の方に走ってくる者がいた。その者が集団と言葉を交わすと、集団を連れてどこかへと走って行った。

 その足音たちが変に悍ましく思えて、私は建物の影に隠れて観察していた。

 ふと、力無く項垂れる男がこの目に映る。そこそこの距離があり、顔も見えないので、男が今どういう気持ちなのかということを上手く推し量れなかったが、その身体が小刻みに震えだしたときには、泣いているのだと分かった。まだ随分と余裕があるじゃないかと思った。

 いや、そういえば、あの日の私も泣いていた。

 あの日の彼が見た景色は、こういったものだったのだろうか。汚れた街の地面に膝をついて涙を流している他人、まだ涙を流せるほどの力を残した哀れな他人と、これを助けることのできる力を持っている自分。

 私はその男を刺激しないように近づいた。近くまで寄ると、今日こなした仕事の報酬のごく一部を男の傍に置いた。

「…え?」

 男は驚いたように私の指先を見て、そこから遡るようにして視線を動かし、やがて私と目が合った。

 男の顔は、傷痕だらけで見るに堪えなかった。衝撃さえあった。目が合ったと言ったが、そんなもの無いに等しかった。

 救いを掴みたいとでも言いたげに伸ばされた枯れ枝のような腕から逃げるようにして、家へと走った。

「待っ、ぜ、ぜんぜん、足りない!!」

 背中に大声がぶつかった。

 こんなの、彼の真似事でも何でもない。私は何がしたかったんだ。それに、血や骨など散々見飽きている。何故今更あの男のそれらを恐れる必要があるのだ。

 湧いてくるのは疑問と後悔ばかりだった。

 絶対に、あの男にとっても、私にとっても、 やらない方がマシだった。

 いつかの彼が呟いた言葉が蘇る。

 気まぐれな人助け。


 いつの間にか家の前まで来てしまっていた。

 走っている間、誰かに見られているかどうかを全く気にしていなかった。このままではマズイと思い、平然を装って家から離れ、街を適当に回り、誰にも見られていないことを念入りに確かめてから帰宅した。

 扉の前で深呼吸をして心を落ち着かせ、ドアノブを掴んで、いつもどおりの力を加えてゆっくりと開けた。

「帰ってきたよ」

「お疲れ様。今日はどうだった?」

「…順調」

 ベッドの上に置かれた沢山の道具と、その傍に立てかけられている、彼の体に適した形の二本の杖、そして、彼がつい最近完成させた木偶人形を見ながら話す。この杖を彼は自らの手で作り、使いこなせるように訓練した。そして、家の中であれば一人でも歩けるようになった。もちろん杖を作る材料は私が集めたし、訓練を始めたばかりの頃も不慣れながらに手助けした。木偶人形の方は、最近できた趣味のようで、私と彼にそっくりな体型に作られている。私自身も、その制作過程を見るのは楽しかった(木屑を片付けるのは大変だったけど)。

 私が人を殺している間、彼はそうやって、この家の中で、あの少年を助けたことによって負った大きな傷を少しずつ克服していた。

 あれから一年半が経ち、幾らかの余裕が生まれた。だから余計なことを考えることも増えて、それによって、先程、計画性に欠けた行動をしてしまったのだろうかと頭の片隅で考える。

 必然、あの男のことが思い浮かぶ。

「あなたは、優しいね」

 そう口にすると、彼は怒ったような口調でこう言った。

「優しいわけないだろ。その言葉は俺に似合わない」

 優しいという言葉が似合わないのなら、彼にはどういった言葉が似合うのだろうか。色々考えてみたけど答えは浮かばず、しかしどうにかそれを探している最中、彼は言った。

「俺は自分勝手な人間なんだ。俺がとった自分勝手な行動を、お前が肯定したり、感謝したりしたから、お前から見て優しい人間になっただけだ。そういうのを、優しい人間とは言わない」

 その言葉は私にとっては殆ど関係ないものだったから、適当に相槌を打った。

「へえ。でもやっぱり、優しいと思うよ」

 彼は大きく溜息を吐くと、目を細めた。

「阿呆が」

  こうやって、二人で笑うことも増えた。 だから、私はこの家に帰るために、細心の注意を払うべきなのだ。

「そういえば」

 彼は何かを思い出したように呟くと、器用に杖を使って立ち上がった。

 これから、僅かではあるが確かに幸せな時間が来るのだと分かって、私の心はあっという間に喜色に塗れた。

「家の裏の方でさ、花を見つけたんだ。ちょうどお前の髪みたいな薄黄色の花でさ。一緒に見よう」

 彼は右手に持った杖を木の壁の方へ向けた。その壁の向こうに、彼が言う花が咲いているのだろう。

「わかった。椅子はいる?」

「頼む。ゆっくり見たいから」

「もうずいぶんと暗くなってるから蝋燭を用意しよっか」

「いや、蝋燭は無しにしよう。ゆっくり、目が慣れるのを待とう」

「分かった」

「ありがとう」

「どういたしまして」

 私たちはそうして外へ出て、家の裏に回り、そこに咲いている件の花を眺め始めた。

 思い返してみれば、夜が更けた頃に椅子を外に持ち出し、二人して地面に咲いた一つの花を眺めているだけというのは、初めてだ。

  やがて目が慣れてくると、花の色や輪郭を捉えられるようになった。

「確かに、色似てるかも」

「だろ?」

「私の髪色に似てる花があるなら、タサキリのもあるかもね」

「そうか?」

「うん。あるよ、茶色の花とか。多分だけどね」

「だと良いな」

 私の隣に座った彼は小さく息を吐き、身を屈めながら花へと手を伸ばした。 彼の表情を隣から見ようとするが、私の目がさっき慣れたのは花の周囲にある暗闇であって、彼の周囲にある暗闇ではなかったから、鮮明とは見えなかった。

「この花も、あとどれだけ枯れていけるんだろうな」

 私は、彼の背中に手を添えようとして、やめた。何かを熱心に眺めている彼というのが、綺麗なものに思えて仕方がなかった。私が触れていいようなものではないと感じられたのだ。

 きっと、彼はこれからも、困難を克服しながら生きていくのだろう。だが、私はどうだろうか。

 …私はもうだめだ。短絡的に人を殺しすぎた。私はもうすっかり、この汚ならしい街の住人になっていた。今の私は、あの人攫いや、私の家族や村を滅ぼした連中を、憎むことも恨むことも許されない人間へと成り果てた。

 私は人殺しの仕事を辞められなかった。

 だから成り果てたのだ。

 人殺しを、悪徳に塗れたものを、最適な選択としたばかりに。

「サリエはさ、何かの死体の上にこそ花が咲くって話、聞いたことあるか?」

 彼が小さく呟いた。

「聞いたことない」

「そうか。俺は、その話を信じているんだ」

 近頃聞いていなかった、力強さを孕んだ声が聞こえてきて、驚くのと同時に歓喜する。

「だから、お前の上に咲く花はどんなもんなんだろうって、一人でいる時によく想像する」

 私は訊ねた。

「どんなもんだと思うの?」

 彼は言った。

「竹の花みたいな花だ。百年に一度しか咲かないような花」

「それじゃあ、私の上に咲くかもしれない、その、たけの花ってのは、人からは殆ど見られないってこと?」

「そう。それが良いんだよ、それが。珍しくてさ」

「なにそれ」

「良いだろ別に」

「良いけどさ。でもせめて、あなたには見てほしい」

「そうか」

 花を眺め始めてしばらくが経った。

「ちょっと戻るね」

 家の中に入り、杖を使って立てるようになった彼が絶対に確かめないであろう地下室に近寄り、その入口である石製の戸を、ズズズ、と動かし、中に置いてある箱を見つめた。地下室に独りで在る箱は、やはり異質に見えた。

 箱を手に取り、その重さを感じると、いつの間にこれ程の金を集めていたのだろうという疑問が湧いてくる。

 外にいる彼に聞こえないよう、箱を揺らした。金が沢山入っている。硬貨がぶつかる音が、卑しくも快く聞こえてしまった。これだけあれば、彼がこの街を抜け出して生活することもできるだろうか。こんな汚い街ではなく、もっと、それこそ先程見た集団のように、綺麗な身なりで生活できるだろうか。

 この金が、私を助けてくれた彼へのせめてもの恩返しになればいいけれど、やはり不安は尽きない。

「サリエ、悪いんだけど椅子を運んでくれないか」

 外から聞こえた彼の声に、私はすぐに返事をした。

 箱を戻し、石製の戸を引きずった痕跡を床から消して外へ向かうと、彼は杖を用いて立ち上がったところだった。

 彼は足だって充分に動かせるようになっている。やはりあの医者の言葉は出鱈目だったのだ。あぁそうだ。あの金でしっかりとした医者の元に罹ることができるのなら。私が集めたような粗末な素材で作られた杖などではなく、もっとちゃんとした素材で作られた杖を買えるのなら、彼は無事に生活していけるだろう。なにせ、手先が器用なのだから。要領が良いのだから。落ち込むことがあっても諦めることはなく、だからこそ人を頼り、協力して、そしてその恩をしっかりと返すような、義理堅く、心根が強い人間なのだから。

 金さえあれば、彼は無事に生きていけるに決まっている。

「ありがとう」

 感謝の言葉がした方を見ると、その表情がよく見えるほどに近い距離と、くもの巣から溢れたばかりの月明かりの下に、彼の瞳はあった。その瞳は、感謝や愛情といった、感情として綺麗なものを宿しているように見えた。

 彼と出会った頃はその瞳を気持ちよく眺めていたが、今は違う。本来であれば、彼から私に向けられる感情の内、正しいものに区別されるものは、嫌悪とか軽蔑とか失望とか、感情として暗澹なものだけだ。人を殺して金を稼ぐ私には、それが相応しい。だからこそ、彼にはそういう類の感情を宿した瞳を向けてほしかった。せめて、ここだけは正しく在りたかった。

 でも彼はそうしなかった。いや、できなかった。私は今まで、彼にバレないように、という心掛けであの仕事をやってきたのだから。彼は、私がしている仕事について何も知らないのだから。

「あ、そういえば。今日も井戸から水を汲んできてくれるか?」

 思い出したかのように、彼はそう言った。

「頼んだ」

 私は快く返事をした。

「分かった」





 燃える小屋を囲むように、数人の人間が立っている。黙って炎を眺めている者もいれば、成功の予感にソワソワとしている者や、呑気に話している者もいた。彼らはとうに、逆襲に備えろという指示の元で行動していなかった。何故なら、小屋が燃え始めてから既に数十分は経っていて、今にも全てが崩れてしまう程に焼け焦げているのに、動く人影が終始全く見えなかったからだ。

 ここに集った人間の目的は、近頃街を荒らしている殺し屋を排除することだ。

 その殺し屋というのは、ただひたすらに高額の報酬が約束されている依頼ばかりを受けている不気味な者だ。

 当然、その依頼をこなす際に求められる力は大きい。そして、高額の報酬が約束されているということは、街への影響力を多分に持っていることの証左であった。殺し屋は、この街を必要以上に動かし、混乱させていた。街を牛耳る組織にとって、殺し屋を排除する理由はこれで十分だった。危険分子は排除するに限る。たとえそれが、今のところは組織に利益を齎す優秀な殺し屋だとしてもだ。密かに燻っている小さな組織が下克上を画策し、その手段としてあの殺し屋を利用する可能性を考えると、排除する理由は益々強くなる。

 そう、殺し屋は依頼を容易く遂行し得る力を持っていた。どうやって身につけたものかは不明で、突如としてこの街に現れ、瞬く間に要警戒人物となった。殺し屋はみすぼらしく汚れた大きな布を身にまとい、目元だけを開けた平べったい木製の面を被っていた。大きな布のせいでその体格を見抜きづらく、目元しか開けていない面は窮屈そうであるのと同時に、外敵から身を守る鎧のようにも見えた。尾行してその棲家を突き止めようにも、いとも簡単に振り切られてしまうが故に進展はなかった。受付所の付近に刺客を待機させ、通りかかったところを暗殺しようとしたが、その企みも失敗に終わった。数の力に頼って正面から仕掛けるのは面子に関わるため、迂闊に手を出せない状況が続いていた。

 数日前、幾年ぶりとなる、組織内での大会合が開かれるまでは。

「俺、心当たりあります。木製じゃないすけど、茶色の面を被ったガキが毎日こっちの受付所に来るんす。結構この似顔絵と似た形の面で。ああそれと、何年か前までは二人で来てたんすけど、最近は一人だけになったんす」

 大会合に集まった中で最も下位の男、普段ならこの場に呼ばれない男が、手を上げてそう発言した。男の発言は、殺し屋の棲家を特定するのに、凄まじく有力な情報だった。

 組織は一斉に動き始めた。自らが牛耳る街に突如として現れた危険分子である殺し屋を排除すると意気込んで。組織の頭は、殺し屋を排除した者たちに報酬を約束した。同時に、確実に殺せるであろう奇襲のみで排除しろと命令した。

「アイツと戦っても犠牲の方がデカくなる。あの仕事ぶりを見れば嫌でも分かる」

 それを聞いて構成員らが選んだのは、夜襲という手段だった。それを執る為にはやはり、殺し屋の棲家を特定する必要があった。


 そうして調べていく内に、ある男が妙な集団を目撃した。

(あの鎧、上層の兵か?どうしてこんなところに?いや、例の殺し屋か。外にまで噂が広がっているというのは本当の話だったか)

 男は集団を見つけるやいなや、面倒事に巻き込まれまいとして身を隠した。

 集団が去っていくのを建物の影から見送った後、次はどこを探そうかと頭を悩ませていた時、突如として、大きくしゃがれた声が聞こえてきた。何かを強く乞うような声、正当な死に際に在りながら、生への欲求を卑しく燃やす声が。

「待っ、ぜ、ぜんぜん、足りない!!」

 それを訝しんだ男が振り返ると、そこには、あの会合で共有された情報と殆ど合致する後ろ姿が在り、そして今走り出したところだった。

 件の殺し屋に尾行を振り切るほどの能力があることを即座に思い出した男は、細心の注意を払ってその後を尾け始めた。

 だが、尾行を始めてすぐに男は疑問を覚える。

(おかしい。聞いていたものとはまるで違う。こんなに単調な動きをするものか?まさか罠?もしくは単純に人違い?)

 だが男はそれらを振り払う。油断に繋がるからだ。今自分が尾行している人物が件の殺し屋である可能性が僅かでも残っているのならば、油断は禁物だ。男は気を引き締めてその人物を尾けた。

 やがて、その人物が足の速さを緩めたのを見て、目的地に着いたのだろうと推測した男は物陰に潜み、周囲の景色を記憶した。

 やがて、その人物は再び走り出し、どこかへ行った。

 そこで男は尾行を中断した。

 景色を見渡していて納得したのだ。殺し屋が住むとしたら、確かにこのような場所であろうと。周囲にこれといった特徴はないが、そこに佇むボロ小屋は、どうにも妖しい空気を放っていた。

 男は自身の勘を信じることにした。

 男は組織の頭の元へ戻り、自分が見つけたものを話した。それを聞いた者たちは嬉々として用意を始めた。だが、頭はどうにも引っかかるものがある様子だった。

「まあいい。行って来い。絶対にやれよ」

 その時、小屋が殺し屋の棲家だという確証は無かったが、そんなことを気にする者は、一部を除いて居なかった。あの殺し屋の棲家に目星がついた。それだけで男たちの表情は明るくなった。

 そして夜が来た。

 あまり大勢で行くと殺し屋に気づかれて返り討ちにあう可能性があったので、行くのは数人にした。闇夜に動くことを得意とする者と、道案内役の者だけ。

 いよいよ目的地が近づいてくると、道案内役の男が話し始めた。

「ここからは誰か一人だけで行け。奴が帰ってきているか確かめろ」

 そうして選ばれた男は、薄い木の壁越しに偵察を終えるとこう言った。

「いる。寝ている。寝息が二つ聞こえる」

 男たちの表情は、この闇夜の中で、一際輝いていた。


 扉を塞げ。油を撒け。火を放て。逆襲に備えろ。


 数十分後。

 炎がその欲望を枯渇させ、ボロ小屋への興味を無くしたようにあっさりと退いていったのを確認すると、それを眺めていた男たちは焼け焦げた小屋へと近づき、そこにあるものを漁り始めた。扉を除け、柱を除け、壁を除け、椅子を除け、棚を除けた。それらは全て焼け焦げていた。

 一人の男が声をあげた。

「おい見ろ、この箱は燃えてないぞ!」

 その箱に詰まっていた大量の硬貨は、この家に棲んでいた者が、街を好き放題に荒らしていた殺し屋だったということを雄弁に語っていた。

「あ〜あ。こんなに貯め込んじまってよ。こういう計画性があるなら、受ける依頼も考えろよ馬鹿が!お陰でどれだけ迷惑させられたか、馬鹿が!結局は計画性が物を言うんだよ、この街ではよ!馬鹿が!」

「オイ、頭の言葉を勝手に自分のモンにすんな。何でも計画性って言えば良いってモンじゃねぇぞ」

 やがて、二つの死体が見つかったという報告が飛んだ。

 死体を見ようとして、男たちはのそのそと一箇所に集まった。

 そこにあったのは、うつ伏せになっているらしい、黒く焼け焦げた二つの人型だった。それを見つけた男が声高に言う。

「燃えた布団の下に仲良くいたんだよ。人を散々殺しといて、どういう神経してんだろうなぁ?」

 これを半ば無視して彼らは会話する。

「例の面とかならもっと確かな証拠になるんだが、木製なんだろ?燃えちまってるだろうな」

「だが間違いない。これだけの金は普通なら稼げないからな」

 男たちが、眼の前に並んだ成果が纏っている雰囲気に当てられ、再びその強い欲望を燃やし始めていたこの時、案内役の男が人型を靴でつついた。

「なんだこの感触。てか、死体の姿勢おかしくないか?こんな真っ直ぐ」

 瞬間、男たちの足元で何かがずり動くような音が響いた。

 そして、十秒も経たない内に、この街で蠢く数多の命の幾つかが消えた。


 辺りが静寂に包まれる。


 この時、この場所に在ったのは、暴力的で、計画性に欠けていて、それ故に純粋な心情のみで突き動く少女と、これを囲う真っ黒な惨状のみだった。

 火傷を気にすることもなく、残っている火気や煙に咽せながら呼吸を整えた後、少女は、今しがた自らが飛び出した場所へと向かった。

 煤に塗れた石戸の向こうにある地下室には、ぐったりとした少年の身体だけが在った。少女はそれに近づき、口付けをした。

 やがて、くもの巣に塗れた夜空を焼く朝陽が現れたが、あの少女らしき姿は、朝陽から見えるところになかった。朝陽が見たのは、昨日と同じように蠢く命たちだけだった。


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ある少女 @sasakure5

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