第3話 四月(3)

 八時を過ぎると少しずつ生徒が登校を始めた。誰もが恐る恐る教室に入る中、その女子は堂々とした足取りで入室し、私の左隣の席にやってきた。ドンっとバッグを置き、ガラガラと大きな音を立ててイスを引く。

「あっ、陽菜子! 隣の席なんて奇遇だね」

 えっと、誰? どこかで会った覚えはあるけれど、思い出せない。学外の交流は私にはないので、学校の知り合いか。クラスメイトを一人ずつ思い出す。とはいえ、全員を覚えているわけではない。……思い出した。

「久しぶりだね、千尋」

 早川千尋。中学二年の同級生だ。当時も特に仲が良かったという覚えはない。授業の中で同じグループになったこともなければ、毎朝挨拶を交わすような仲でもなかった。中学三年生の頃は廊下ですれ違っても挨拶どころか視線を交わすことすらもなかった。そんな距離感の相手。つまり友達でも何でもない。

「本当に陽菜子がいて良かったよ!」

 本当?

「やっぱり友達がいないと、新しい環境は不安だよね!」

 友達? 私達が?

 随分と距離感が近い。身体の距離ではなく、心の距離。きっと、これまでに千尋は私のことを思い出しもしなかった。同じクラス、それも隣の席になった途端に記憶を探り、手繰り寄せたに違いない。

 知らない場所で“知人”がいることは心強いが、私にとって千尋は知人ですらなかった。名前と顔、過去の自分のこと少しでも知られている点では初対面の人よりも厄介だ。同じクラスだった当時の私に対して、どのような印象を持っていたかは分からない。これまで友人として接していなかったと言うことは、良く思っていなかったのだろう。その思いを今も抱いているのなら、やはり厄介な相手だ。

「陽菜子、そういえばさ」

 名前で呼ばれるのも違和感がある。以前は「都築さん」と名字で呼んでいたはずだ。彼女に習って、私も名前で呼んだが心地よいものではなかった。

「スクールバスにいなかったよね? 私達の家の距離ならバス通学かと思ったけど」

「私、市バスで来たから」

「えっ、なんで? わざわざ市バスで?」

 信じられないようなものを見る目をこちらに向けてきた。自然と声も大きく、周囲のクラスメイトの目を惹きつけていた。

「ちょっと、声が大きいよ」

「ああ、ごめん。でも、何で?」

 しつこい。そんなに興味があるのか? 私がスクールバスで通おうが、市バスで通おうが関係ないだろうに。私は真実を打ち明けるほど千尋を信用していない。

「三月の説明会の時に申し込み忘れちゃって。それで、当面は市バスで通おうって思っているんだ」

 体よく説明をすると、

「えー、おっちょこちょいかよ。それじゃあ、先生に言おうよ、申し込みを忘れてたって。きっと今からでも手続きしてくれるから」

「いやいや、大丈夫だよ。入学早々先生に面倒をかけるのも悪いし」

「でも」

 でも、じゃない! あー、面倒! 私がいいって言っているのに。

 いくらかストレスを溜めていると、教室に大人の男が入ってきた。茶色いスーツ、決して綺麗とは言えない撚れたシャツ、無精ひげが目立ち、身なりからだらしなさが見えた。

「ほら、席に着け。いつまでも中学生気分じゃ困るんだぞ。……ったく、こんなことを言わせるなよな」

 口も悪かった。乱暴な言い方は浮かれていた私達を地に足を付けさせるには、程度の良い言葉で、自分たちが他所者だという事実を改めて突きつけられた。

 知り合いと談笑していた生徒達が自席に着き始めた。そんな中、今朝バスで一緒になった女子、おそらく高瀬由衣が教室の後ろの扉から入って、私の目の前の席に座った。私は彼女のことを目で追っていたけれど、当の彼女の方は私に興味がないのか一度も視線が合うことはなかった。

 全員が着席したことを確認して、

「俺がA組の担任、間瀬健次郎だ。一年間よろしくな。……えっと、あとは何だっけ? ああ、そうそう、新しい環境だからって、あまり浮かれているんじゃないぞ。中学ではお前達が最上級生でふんぞり返っていたかもしれないが、ここでは下っ端だ。礼儀正しく、先生方の言うことを聞いて、面倒事を起こさずに一年を過ごしてくれ」

 みんなの背筋が伸びるのを感じた。

 間瀬は教室をぐるっと見渡すと、

「全員いるな。いいことだ」

 小さく呟くようにいうと、手に持っていた用紙にチェックをいれていた。出席簿だろうか。

「さて、これから入学式だ。机に置いてあった名札と、花飾りを胸に付けろ。出席番号順に並んで体育館へ入場、式中は司会の教頭の指示に従えば良い。式が終わったら、ここでホームルームだ。自己紹介と明日からの流れを説明する。昼前には下校」

 お前達にもできるだろ? というような意図が込められている物言いだ。視線だけを動かして周りの様子を伺うが、何人かの生徒の顔が曇った。高瀬由衣はどうだろう。そんなことが気になった。

 そして、間瀬の指示に従って、蟻が隊列を組むようにして私達は体育館へ向かった。

 男女分かれて学籍番号順に並び、体育館へ向かう。だが、私の前は高瀬由衣ではなかった。もう一つ前の席に座っていた、菅原という女子だった。高瀬由衣は私達の列の一番後ろにいた。間瀬が男女の列を引率する。体育館に入ると道が見えた。左右には先輩方が行儀良く座って中央を私達が通るための道として開けられている。スカーフの色から判断すると左手に二年生、右手に三年生が座っている。そして、二、三年生の前に保護者。誰もが拍手をしている。そのように指示されているのだろうが、異様な光景だった。大凡千人が拍手をしているのだ。正気だと思えない。異様な空間を抜け、体育館前方に並べられているパイプ椅子に座る。新入生入場が終わる頃に、ちらりと教員席を見たけれど、茶色のスーツを着ているのは間瀬だけだ。他の先生は黒い。彼だけが浮いて見えた。

 校長や来賓の挨拶が終わり、式は滞りなく進んだ。

『続きまして、新入生代表挨拶』

 司会進行の教頭がアナウンスする。

『新入生代表、高瀬由衣』

「はい」

 名前を呼ばれると同時に、透き通った声が体育館に響いた。矢のようにどこまでも飛んでいきそうな力強さがあり、そよ風のような優しさ、そして、小鳥のように可愛らしい声だった。高瀬由衣は立ち上がる。歩きは早くもなく、遅くもない。方向転換の際にも所作がはっきりとしており、手本のような歩き方だった。タッタッタッとリズム良く階段を昇り、壇上に上がる。一連の動きを、私は目で追っていた。釘付けという言葉がぴったりだった。新入生でありながら、堂々としており、壇上でも物怖じしない。そんな彼女の態度を私は羨ましいと思った。

 彼女は壇上に上がると、淀みなく挨拶を読み上げた。その声は緊張で震えることもなく、美しく重厚感があり、堂々としていた。

「本日は誠にありがとうございました。新入生代表、高瀬由衣」

 そう締めくくり、礼をすると、くるりと向きを変えた。数秒の間、彼女の顔がよく見えた。黒く長い髪に大きな目、筋の通った綺麗な鼻。ピンと伸びた背筋が自信を醸し出しており、私よりも大人びているように感じた。 

「綺麗な人だな」

 私はそう思った。口には出さなかったけれど、私以外の人も同じように思ったに違いない。

 一定のリズムで歩き、足音が全校生徒の耳に届く。その音すらも聴き心地が良く、彼女の気品高さを伝えるには十分に思えた。

 壇を降りて、イスに腰を下ろす。それを見て、教頭が式を進めた。その後も生徒の私からすれば何一つトラブルはなく入学式は終わった。私達は入場したときと同じように退場し、教室に戻された。トイレ休憩を挟んでホームルームを行うことになったが、その休憩時間、ちょっとした騒ぎになっていた。

 高瀬由衣の周りには人が集まっていたのだ。

「高瀬さん、新入生代表だなんて、すごいんだね!」

「すごくない」

「ねえねえ、練習とかしたの? あんなに堂々と話せていてすごいね!」

「すごくない」

「高瀬さんはどこの中学出身なの?」

「関係ないでしょ」

「連絡先教えてよ、高瀬さん!」

「嫌」

 ……愛想悪いな。

 端から見ていると無愛想な対応に冷や冷やした。群がっている当の本人達はそんなことを気にしていないようで、マシンガンのような質問攻めは続いていた。私も高瀬さんと話をしたかった。ただ、あの群れの中に入っていく勇気はなかった。彼女から大勢の一人として処理されていくことが嫌だった。

 人集りが鬱陶しく、私と千尋は廊下に出た。恨めしそうに人集りを眺めて千尋は言った。

「高瀬さん、一躍人気者だね」

「羨ましいの?」

 と聞くと、「そうだね」と返ってきた。

「だってさ、高校って知り合いが少ないでしょ。そんな場所で、みんなから話しかけてきてくれるなんて、いいじゃん。羨ましいよ」

「そう?」

 さすがは東中学校の人気者は考えることが違う。

 ……式中に思い出したことがある。早川千尋について。

 ショートヘアの彼女はボーイッシュな印象を受ける。運動が得意で、中学では陸上部に所属。種目は短距離走。五十メートル走は学年で一、二を争う記録を叩き出しており、自前の明るい性格も相まって、校内での人気は高かった。本人から直接聞いたわけではないけれど、男子生徒からではなく、女子生徒から告白されたという噂が流れた。真相は分からない。

 今朝まで顔も名前も忘れていたが、よくよく考えてみれば私の通っていた東中で彼女のことを知らない者はいないと言っても過言ではないほどに、彼女は有名人だった。

 何故忘れていたかというと、仲が良かったわけでもなく、興味も無かったから。それだけのことだ。

 高瀬由衣は相変わらず矢継ぎ早に質問されていた。あれでは息をつく暇もないだろう。人が群がっている中心に私は立ちたくない。常に注目され続けるなんて、私には耐えられない。高瀬由衣はどう思うのだろう。千尋のようにポジティブに感じているのか。私のようにネガティブに感じているのか。考えても分からないことだけれど、少なくとも笑っているようには見えなかった。

「いい加減にして」

 ほら、あまり無愛想にしているから、誰かが怒ってる。

「いい加減にして、たかだか新入生代表の挨拶でしょ? そんなことで騒がないで」

 声を荒げていたのは、高瀬由衣だった。

 空気が凍り付くというのはこのことを言うのだろう。しばらくの間、誰もが彼女に注目したまま、言葉を発せずにいた。彼女の周りの人たちはなぜ怒っているのか分からないといった様子で、口をぱくぱくさせながら、立ち尽くしていた。誰も何も言えず、時が止まったようだった。だが、ある一人の言葉によって、時が動き始める。

「あらあら、新入生代表だからって浮かれているのかしら? いいご身分よね。みんなに注目されて。さぞかし良い気分なのでしょうね」

 ウェーブのかかった金髪女子が教室の後ろから高瀬由衣に向けて言葉をぶつけた。最後列の席だから気付かなかった。めちゃくちゃ派手じゃないか。校則で髪を染めることは禁止されているのに、あの色。光を全て反射しているような白にも近い金色の髪。あれが許されるのなら私の茶色みがかった髪なんて没個性だ。そして、更に私の目を奪ったのはそのスタイル。出るとこがでている。それが制服の上からも分かる。それに足が長い。本当に高校生か? 同い年とは思えない。

「何か言ってみたらどうなの? 声が出ないわけではないのでしょ? ほら、さっきみたいに何か言ってみれば?」

 逆なでするような抑揚の効いた声は、聞いているこちらの気分も悪くした。

 高瀬由衣に群がっていた人たちも、その声に怯えて散っていく。

 座ったまま振り返り、睨み付ける高瀬由衣の目は、先ほどよりも一層鋭く、金髪女子が怯んだようにも見えた。

 高瀬由衣は何も言い返さなかった。ただ睨むだけで、噛みつくことはしなかったのだ。

 間瀬がファイル片手に階段を昇ってくる。私達を見ると嫌そうな顔をした。

「なんで、廊下にいるんだ。教室に入れ……ん? ああ、そういうことか」

 教室の中を覗くと、状況を理解したようだ。大きな溜息をつく。間瀬は教室へ入り、教壇立つと、力を込めてファイルを教卓に叩きつけた。パンッと大きな音が鳴って、皆が間瀬に注目をした。

「ほら、席に着け。ホームルーム始めるぞ」

 殴り合いでも始まりそうな張り詰めた空気が壊れ、皆が席に戻っていく。

 それから自己紹介、教科書の配布、明日以降のスケジュールの説明を受けて、予定通りお昼前に下校することになった。ちなみに金髪女子は城ヶ崎という名前で、母親がイギリス人らしい。なるほど、地毛で金髪なのか。私の栗毛が目立たなくなって、ありがたい。

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