第2話 四月(2)

 私が暮らしているのは、中部地方愛知県のとある町。中京圏の中心となっている街から電車で三十分程度の場所に位置しており、県内三位の面積と人口を誇っている。中央には一級河川が流れており、東西を大雑把に二分している。私はこの河川の東側に暮らしている。

 自宅から徒歩五分に最寄り駅がある。そこから、電車、バスと乗り継いで学校へ向かうことになる。中学までは自転車で通学をしており、電車に乗る機会は少なかった。電車で通学することにも緊張した。前もって、交通ICカードの代わりになるアプリをスマホにダウンロードし、一往復分の運賃をチャージしたが、それも滞りなく機能するのか不安だったし、改札を通れなかったときに知らない人達から注目されることを想像しただけでも胃が痛かった。ピッと短い電子音とともに改札は開いた。

 駅は普通電車しか停まらないので、遊びに出掛ける時には特急が停まる隣駅まで車で移動することが多い。それ故に、この駅の利用者は少ないと思い込んでいたが、ホームには大勢人がいた。歩けば人にぶつかり、足を止めれば後ろから人がぶつかる。人でごった返した場所だった。ほとんどが会社員で、私のような学生の姿はなかった。

 計画通りだった。私は学生に会いたくない。同じ学校でも、他校でも。同学年でも他学年でも。学外で制服姿の人間を見るだけで身体が強ばる。学内で生徒に会ってもそうは思わない。校門を潜るまでは、私の中でスイッチがONにならないのだ。誰かに会って突然スイッチを入れることはできないし、OFFの状態を見られることも嫌だった。これは小学校の頃から変わっていない。友人であろうと学外で会うことを嫌い、放課後に誰かと学外で遊ぶことは少なかった。学校の知人との関わりは校内で完結させたかった。学外までそれを持ち込むと、歯止めが効かなくなり、どこまでも関係を続けなければならないような気がした。違う制服を見つけても、自分を律しなければならない気持ちにさせられた。一種の呪いのようなものだった。

 だから、私はいくらか早い時間に登校することにした。この調子ならば、朝のホームルームの一時間前には学校に到着する。学外で生徒に会うことなく登校できるはずだ。どこで出くわすか分からないので、油断は禁物。

 電車はダイヤ通りにやってきて、私を運んだ。バスに乗り換えるために三駅先で降車した。その駅で降りたのは私だけで、入れ替わりに会社員がどっと乗車した。これほどの人数が箱の中に収まるわけがないと決めつけていたが、出発時刻には乗車し終え、電車の扉は閉まった。窓から見えた車内は、人で押し固められた地獄絵図と化していた。会社員は更に電車に揺られて大きな街で降車するのだろうと予想できたが、大勢の人が詰め込まれた空間にいることは、私には我慢ならないだろう。

 構内の案内に従って、バス乗り場に向かう。そこに停まっていたのは赤と白を基調としたカラーリングのバスで、まるで消防車や救急車のような色だった。何度も行き先を確認して乗車する。バスを利用するのはいつ以来だろう。高校の試験当日や説明会は、お母さんの運転する車で向かったので、今日のルートは通っていない。最後にバスに乗車したのは、記憶にないほど前のことのように思う。

 車内は運転手と私の二人だけだった。出発までまだいくらか時間はあったが、他に乗客が来ないことを願った。進行方向右側、後ろから二番目の席に座った。二人掛けの席だが、他に乗客はいないので、私の隣にバッグを置いた。窓は雨で濡れていた。雨の勢いは弱まらず、きっと学校の桜も散っているだろうなと思った。天気予報で「桜が満開になるでしょう」なんて言っていたけれど、この雨が予報に反映されるようになってからは「桜の見頃ですが、雨で早く散りそうです」と物憂げに天気予報士が伝えていた。桜が楽しみだったわけではないが、寂しさがあることも嘘ではなかった。


 実はスクールバスというものが存在している。三月の学校説明会の際に利用者は申し出をするように言われた。自宅から学校までの距離が規定を満たしていることが条件だった。私はその条件に当てはまった。距離の規定、つまり自転車通学が困難な遠方に住んでいることである。私は、始業前から学校の生徒と顔を合わせることも嫌ったし、先輩方と同じ空間に閉じ込められることはもっと嫌った。

「本当に申し込まなくて良いの?」

 お母さんの心配を無碍にするようで申し訳ないが、首を立てに振って、

「申し込まなくていい」

 と断言した。

「市バスで通うから」

 その言葉にお母さんは眉間に皺を寄せた。スクールバスを利用することで料金は取られない。わざわざお金をかけて市営バスで登校する理由が分からなかったのだろう。

「まあ、陽菜子がそこまで言うなら、いいけど」

 納得がいかないながらも、私の意見を尊重してくれた。「だけど」と付け加えて、その費用は誰が工面するのかと問われた。

「私が稼ぐから」

 苦し紛れの答えではなく、前から用意していたものだ。本来なら無料のスクールバスに乗れば良いところを私の勝手で市バスを利用するのだから、その費用は親には頼れない。私を雇ってくれる宛てはある。アルバイト先から突きつけられた条件は「働いてもらうのは五月から。四月は学校に慣れるだけでも大変だろう」ということだけだった。四月、五月はお年玉の残りを使ってバスに乗る。その先はアルバイト代で賄う算段だ。ただ、私が通うことになる高校では、正当な理由が無い限りアルバイトは禁止されている。「人に会いたくないから市バスを使う。その賃金稼ぎ」というのは正当な理由とは到底思えない。明言されているわけではないが、一般的には生活費や学費を稼ぐためというものだろう。のこのこと教師に相談しに行けば、返り討ちに遭うところだった。つまり、許可証のない私はモグリのアルバイターとなる。自宅近所の個人経営の書店なので教師達の巡回も少ない見通しだ。


 バスの出発の時間が近づいてくる。

 未だに乗客は私だけ。市街から駅へ向けての乗客は多いが、駅から市街へ向かう乗客は少ないようだ。

 運転手が車内の時計を確認した。そろそろ出発か。ブルンブルンと音を立て、エンジンがかかる。車体全体が小刻みに震えた。一度座り直し、背筋が伸びる。扉が閉まる前に、人影が飛び込んできた。長い黒髪の女性だった。乗客が私だけと思っていたところに現れた人影に驚いたが、次の瞬間には彼女の艶やかな黒髪に魅入られていた。扉が閉まる。彼女は車内を見回し、席についた。私とは対角の位置に座ると、運転手は鏡越しにそれを確認し、バスを前へ進めた。

 僅か一瞬の出来事だったが、私の頭の中は彼女のことで溢れていた。それは、ここまで順調だった私の計画が狂い始めたからだ。彼女は私と同じ制服を着ていた。更にいえば、同じ赤いスカーフを巻いていたのだ。私と同じ新入生。これから入学式に向かう生徒だった。

 市バスでの登校を選び、家を早く出たが、初日から同学年の生徒に出くわしてしまった。身体が強ばるのを感じる。学校が近づいてきているという緊張感が突然襲ってきた。スイッチが徐々にONに近づいている。カチッという切り換えの音は聞こえてこない。まだONとOFFの間を彷徨っている。

 明日からはどうしよう。

 同じ時間のバスに乗れば、彼女とまた出会うのだろうか。窓の外の雨景色が目に入る。そうだ、彼女の素性は分からない。例えば、自転車通学者だったらどうだろう。雨の日だけスクールバスを利用するということはできないので、彼女は今日だけ電車と市バスを利用しているのではないか。

 それに今日は入学式。普段以上に遅刻をすることは避けたい思いが強いはずだ。雨天では公共交通機関もダイヤに乱れが生じることもある。早い時間のバスに乗っていることも考えられる。そう考えると、今日だけの我慢だと思えて、気持ちは少し楽だった。

 気分を紛らわすために窓の外を眺めるが、雨粒が窓について、外が見えにくい。風圧で次々に粒が流されていくが、絶え間なく雨が窓にぶつかる。

 バスは時折大きく上下に揺れた。その度に隣に置いたバッグは座席から落ちそうになり、慌てて元の場所に戻す。常に小刻みに揺れ、その度彼女の髪も揺れていた。

「綺麗だな」

 彼女には到底届かない、エンジン音にかき消されるほどに小さな声だった。

 学外で生徒に出会うことは芳しくないことではあったが、同じバスにいる彼女は常に私の心にいた。乗車時に一瞬だけ見えた彼女は、整った顔立ちと澄んだ目をしていた。私はその全てに魅入られていたのかもしれない。

 名前も知らない彼女はずっと窓の外を見ていた。私と同じで、雨粒が邪魔をして景色は見えないはずなのに。

『次は――』

 録音された音声がスピーカーから流れる。

 学校の正門前のバス停が読み上げられた。

 私が停車ボタンを押すと、ピンポンという高い音が鳴った。

『次、停まります』

 そのアナウンスを聞くと、彼女は私を見た。

 驚いているのか、目を大きく見開いていた。もしかしたら、私が乗っていることに気が付いていなかったのだろうか。彼女が乗車時に車内を見回したのは一瞬のことで、空いている座席を確かめただけだ。……そこまで推測してみるけれど、真相は分からない。乗客がいることは認識していたけれど、同じ学校の生徒とは思っていなかったということもありうる。

 次第にバスはスピードを緩め、やがて停まった。

 プシューというバス独特の音を立てて扉が開いた。

『――です。お気を付けてお降りください』

 運転手が決まりごとを読み上げ、私達は立ち上がった。

 彼女に声を掛けてみたいと思った。

 こんな気持ちは初めてだった。初対面の相手に話し掛けることは苦痛でしかないはずなのに、今はそうではなかった。彼女のことを僅かでもいいから知りたいと思った。いや、だけど、迷惑だ。私は友人にだって学外で話し掛けられることが煩わしく思う。それに、今勇気を出して話し掛けたところで、同じクラスでなければ、それっきりの関係だ。その勇気も無駄になってしまう。

 バスを降り、傘を差す。私の前に水色の傘が歩いている。

 声を掛ければ届く距離。だけど私にはそれができなかった。

 バス停から学校の正門は目と鼻の先だった。数える程度の歩数しか歩いていない。正門には学校名が刻まれていて、その横には桜の木が植えられていた。見上げると、花は咲いているが、それ以上に雨が目立った。花弁を雨が打つ。足下にはびしょびしょに濡れた花びらが落ちていて、私には綺麗な光景には見えなかった。

 このまま歩くと、昇降口で追いつくだろう。傘をたたんで、スリッパに履き替える。彼女との数歩の距離を埋めるには十分な時間だった。私は歩幅を小さくした。彼女との距離が広がった。

 昇降口にはクラス分けの表が張り出されていた。彼女はそれには目もくれずに校舎内へと入っていく。

「ええっと、私の名前は……」

 都築陽菜子の文字はすぐに見つかった。一年A組だ。

 この学校は全校生徒千人程。一学年あたり三百人、十クラスで構成されている。AからJというようにクラス名はアルファベット表記。Aクラスだったのですぐに名前が見つかった。クラス分けの隣には各教室の場所が書かれた校内図が貼られていた。A組は二階だ。校舎は「エ」の形をしている。一般教室がある南棟と特別教室のある北棟。どちらの校舎も五階で構成されており、各階渡り廊下で繋がっている。

 南棟一階は保健室や多目的室、食堂があり、一般教室は二階以上にある。バッグの中から学校指定のスリッパを取り出す。あれ? 先ほどの彼女は下駄箱からスリッパを取り出していた気がした。下駄箱で自分の名前を探していると、靴が入っている場所が一つ。

「高瀬、由衣」

 もしかしたら、これが彼女の名前だろうか。高瀬由衣の下の箱に、私は自分の靴をしまう。

 暗い校舎。晴れの日ならば電灯を点けなくとも十分だろうが、今は薄暗く、人気もなく気味が悪い。ジメジメとした空気、雨の臭いと下駄箱の木の匂い。知らない臭いがして不快だった。だから新しい場所は好きじゃない。

 この雨と気温が原因で結露したのだろう。廊下はほんのりと水の膜が張っていて、歩く度に水が伸び、埃が混ざって、床が黒く汚れる。ぺちゃぺちゃと足音を立てながら階段を昇る。昇った先、目の前にA組の教室はある。教室前後の扉は開いていたが、中に人の気配はなかった。もし誰かがいたら、なんと話し掛けよう。「おはよう」だろうか? 自己紹介はする? あまりフレンドリーに接しない方が良い? そんなことは事前に考えておけば良かった。この時間ならば誰もいないだろうと、たかをくくっていたのだ。それが高瀬由衣を見かけてしまったがために、誰かいるかも、と不安を抱くようになってしまった。

 恐る恐る教室を覗き込むが、誰もいない。

 肩から力が抜けた。力んでいたことに気付く。登校しただけなのに、すでに疲労を感じていた。

 私は自分の名札が置かれた席を探し、着席した。私の前は高瀬由衣。けれども席に座った様子も、机に置かれた様々な資料に触れた様子もない。彼女はどこに消えたのだろう。教室の時計は七時五十分を指している。あと三十分もすれば、教室には大勢の生徒で溢れることだろう。それまでの間、雨音に耳を傾けて、静かに過ごそう。

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