第1話 四月(1)
四月に入ってもまだ肌寒さを感じていた。
この時期は「春なのに寒いなぁ」と毎年思う。
ただ、昨晩から雨が降り続いており、今日は肌寒いなんてものではなく、真冬のような寒さだった。
ベッドで目を覚ました私は、布団と毛布を身体に被せたまま、窓に打ち付ける雨の音に耳を澄ませていた。土砂降りだ。外を見なくても分かる。雨に打たれて窓ガラスがパチパチと鳴る。弾ける雨粒の音は、石をぶつけているかのように力強い。近いうちに窓が割れるのではないか。いつもは眩しい陽光が窓から差し込み、部屋は室内灯を点けずとも明るい。それが今日は真っ暗だった。気分も落ち込む。
枕元に置かれているデジタル表示の目覚まし時計。表示は五時五十九分。あと一分もすれば大きな音を立てて、騒ぎ出す。
「布団から出たくない」
嫌だ、嫌だ。こんな寒い日は布団に包まれて温々と過ごしたい。
そして、無情にも一分も経たずに時計は進み、ジリリリリと他では聞かない特異な音が私を起こそうと部屋中に響き渡る。
「あー、もう! 分かった、分かったよ。起きれば良いんでしょ?」
ポチッと時計の上部にあるスイッチを押すと、これまでの騒ぎが嘘のように大人しくなった。
再び冷たい雨音だけが部屋に響く。
「……あと五分だけ寝かさせて」
私は再び目を閉じ、布団の温もりに包まれて、眠りへと落ち……。
バタン! と大きな音を立てて開かれた扉。目覚まし時計のアラームよりも耳の奥に響いて、私の頭を叩き起こした。それだけでは飽き足らず、扉を開けたお母さんは怒号のような言葉を発し、追い打ちを掛けた。
「ちょっと、陽菜子! 起きなさい! どうせ二度寝しようとしているんでしょ! 遅刻なんて許さないからね! 今日が何の日だか忘れたわけじゃないでしょ」
「起きる。起きるところだって!」
見え見えの嘘で取り繕うけれど、お母さんには嘘だろうが本当だろうがどちらでも良かった。早く起きて支度をする。それだけが重要だった。
「それならいいけど」
と言い残してリビングへ戻っていくお母さんを見送る。もう一度時計を見る。六時。何度見ても変わらない。この瞬間が悪い夢であれと願うが、現実は私を逃がさない。眠たい中、目を擦る。立ち上がり、ベッドの脇にある姿鏡が目に入るが、そこに映っていたのは昨日と同じ私。人気キャラクターのイラストがプリントされたパジャマ。寝癖だらけの茶色い髪は肩に届かない。髪を染めることは校則で禁じられている。「染めていません」と真実を告げても、私の茶色い頭を見て、生徒指導の教師は注意をするのだろう。中学でもそのやりとりを幾度としていたため、焦りも感じず、達観にも似た何かが私の中には芽生えていた。
下の階ではお母さんが朝食を作って用意してくれていた。トマトとレタス、ゆで卵のサラダに、トースト、ヨーグルトというメニュー。先に席に着いていたお父さんはすでにトーストを囓っていた。私も座り、サラダに手を伸ばす。すると、壁に掛けられたカレンダーの赤丸印が視界に入る。その視線に気付いたのか、お父さんが私にニコニコしながら話し掛けた。
「ついに入学式だな。緊張せずにいれば大丈夫だから」
「お父さん、緊張なんてしてないって。式の中で役割があるわけでもないし」
赤丸は四月五日に付けられている。今日の日付だ。更に、丸印に被るようにして“入学式”と大きく書かれていた。
「そうよ。陽菜子は緊張するようなことは何もしないんだから、大丈夫。お父さんは心配性なの。起きてからずっと、陽菜子は遅刻しないか、入学式は上手くできるのかって、騒いでいるんだから」
「入学式だぞ。心配にもなるだろ」
両親のやりとりを聞き流して、草食動物のようにサラダをムシャムシャと食べた。入学式に緊張することは何もない。ただ入場して、座って、退場して終わり。式という名に緊張する人もいるだろうが、そこはお母さんに似た図太さが私を正気に保ってくれていた。心配性な父と大雑把な母を両親に持つ私、都築陽菜子である。希に肝が据わっているため、両親は私のことを母親似と捉えている。しかし、当の本人は父親似で心配性な性格だと思っている。
何だかんだと二人は話していたけれど、私は朝食に夢中だった。食事を終えて席を立つ。
「お父さん達も入学式行くからな」
そんな言葉が投げられ、背中に当たった。
自室で着替えを済ませる。着慣れない制服のブレザー。三月に購入し、サイズが間違っていないかを確認して以来、ひと月ぶりに袖を通した。一週間ほど前から「着られるか確認したほうがいい」とお父さんには言われていたが、面倒だった。サイズはぴったりで、春休みの間に太っていなくて良かったと安心した。スカートの腰回りが少しきつく感じたのは気のせいだろう。
中学の卒業式の私と今の私には違いがなかった。外見も、心も。進学という言葉が頭の中にぼんやりと浮かんでいるが、それが明確な輪郭を持つことは無かった。自分が高校生になることが受け入れられず、結局当日まで着ることはなかった。
姿鏡に映る自分の姿は不思議なものだった。高校の制服姿は大人っぽさを醸し出していたが、そこに映る顔は中学生の頃と変わらない。そのアンバランスさに加えて、真新しい制服に着られている姿は滑稽に見えた。外見ばかり先行して高校生になろうとしているが、中身が伴っていない。胸に絞めたスカーフの色は赤。それは一年生の証拠。二年は青、三年は緑。来年の新入生は緑色のスカーフを付けることになる。この赤いスカーフが幼さをアピールしているようだった。
ボブカットの髪を手櫛で梳いて、スカーフを整える。肩についた埃を取り、スカートの裾を払う。一連の動作を終えて、身嗜みが整え終わる。
「ふぅ、行くとしますか」
時計は七時を指しており、予定通りの時刻で安心した。同時に、いよいよ登校するというプレッシャーが私の肩と胃に重くのし掛かってくる。胃がキリキリと痛んだ。
率直に言うと、学校に行くことが嫌だ。
高校という未知の場所は知らない臭いがする。木や金属、人の臭いだ。それらは異質で、気持ちが悪い。何がどこにあるかも分からない。暗黙のルールがあるのかも分からない。勝手が分からない場所に行くことが億劫だった。
加えて、私は人見知りをする。取り繕いはするけれど、心の中では子犬のように震えている。学校という場では友人を作らなければ生きていけない。これからの数日、必死に友達作りをしなければならない。それも悩みの種である。気心知れた相手ならば、会話のパターンが見える。宿題を見せて欲しいとか、昨晩のテレビ番組を見たかとか。話の導入を察することは容易だ。けれど、初対面の相手ともなれば、そうはいかない。宇宙人のように、何を考えているか分からない他人と話すことは苦痛だった。
不安は多いが、立ち止まっているわけにもいかない。バッグを肩に掛け、部屋を出る。
「お母さん、行ってくるね!」
「今日、雨なんだから、傘持って行きなさいよ」
分かってる。こんな土砂降りの中を傘無しに歩くほど命知らずではない。
「あとで入学式、観に行くから。しゃんとしなさいよ」
「はーい」
高校の入学式なんて観に来なくていいと何度も話したのに聞き入れてはくれなかった。私の姿が見えるのは入退場の一瞬だけで、式中に何かをするわけでもなく大人しく座っているだけなのだ。それを観に来ても仕方ないでしょと毎晩夕食時に話したが効果はなかった。親が学校に来るというだけで、気を張ってしまう。新しい環境に置かれることを考えるだけでも気が滅入ってしまいそうだというのに。
傘立てから一本取りだし、玄関の扉を開ける。ガチャッという解錠音。重い扉。そして、その向こうには、土砂降りの雨。
新生活のスタートとしては、お世辞にも良い天気とは言えなかった。
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