雨の降った日だけは
奈月たかし
プロローグ
「相手の気持ちになって考えてみましょう」
小学校の授業で先生が言った。私は、そのことを高校生になっても覚えているし、きっと将来大人になっても忘れない。
三年生か四年生の頃。道徳の授業だった。三十人程の生徒達は大人しく席に着き、授業の始まりの号令を係の生徒が言った。
「はい、では教科書を開いて。前回の続きの……」
先生はページ数を私達に告げる。
「それじゃあ、○○くん。ここ読んでもらえる?」
生徒の一人が起立し、指示された文章を読み上げる。先生はその間に板書をした。生徒が読み終えると、「ありがとう」と礼を言って、着席させた。
黒板には今日のテーマ、問いが書かれていた。そして、先生がそれを読み上げた。
「バカとかアホとか言われたら、相手はどのように感じると思いますか?」
授業の詳細については、思い出すことができないけれど、先生が言ったことは今でも鮮明に思い出せる。先生の言葉は、私にとって印象的だった。
だって、そうでしょ?
「相手の気持ちになって」
「相手はどのように感じると思いますか?」
小学生ながら私は、そんなことを考えるのは無理だと思った。
当時の私は、私なりにその問題に真摯に向き合ったつもりだ。私は考えた。バカと言われた相手がどのように思うのか。だけど分からなかった。
クラスメイトは次々に挙手をして「嫌だと思う」「悲しい」「怒る」といったことを発言していく。一通りのパターンが出そろうと、「○○くんと同じで悲しいと思う」と同じ意見であることを前置きして、発言する生徒も多かった。いつの間にか、発言していないのは私だけだった。
みんなの視線が私に刺さる。
僅かな時間だったけれど、誰も何も言わず、重い空気を作って私の心を押し潰そうとしてくる。
「お前のせいで次に進まない」
「早く答えろよ」
そう言いたげな目をしていた。それでも、分からないものは分からない。
みんなはバカと言われた人に同情をしているけれど、悪いのはバカと言った人なのか? それすらも分からない私に「相手はどのように感じると思いますか?」という問いかけに答えられるはずもなかった。
しかし、先生は私に発言をするように促した。
「都築さんは、どう思う?」
考えたけれど、私には分からなかった。
今にして思えば、クラスメイト達と同じことを言っていれば、すぐに注目は解かれたのだろう。「悲しいと思います」そう答えた生徒は何人もいた。答えが被ってはいけないことはなかった。当時の私は真面目だったのだ。真剣に考えて、考えて、考えた。それでも、答えは分からなかった。だって、バカと言われた相手が何を感じるかなんて、分かるわけがないと思ってしまったのだから。クラスメイトから様々な意見が出ている時点で、相手の立場になって考えたところで正解を見いだせていない。それなら、相手の立場になって考えるなんてことは必要なのだろうか。そんなことを言うべきで無いことは分かっていたから、私は口を閉じていることしかできなかった。
「陽菜子ちゃんは、人の気持ちが分からないからね」
クラスメイトの女の子が言った。
その後はあまり覚えていない。小さな笑いが起きて、先生が適当に話を逸らせ、授業が終わったのだと思う。
彼女が言ったことは間違いではない。私には人の気持ちを推し量ることなんてできない。だけど、それはみんな同じだと思う。先生も、クラスメイトも。ましてや、その女の子こそ、人の気持ちは分からないのではないだろうか。授業中にそんなことを言われた私の気持ちを、彼女は分かっていたのだろうか。怒ると思った? 嫌な気分になると思った? それとも、悲しくなると思った?
私は「その通りだな」と素直に感心していた。
あの教室にいた人の中で、誰か一人でも、私がそんなことを思っていたなんて想像できた人はいたのだろうか。
きっといない。
これが、その授業の結果だった。
小学校の頃、アニメのグッズを持っていると人気者になれた。
クラスの話の中心にいる人は、日曜日の朝に放送されている魔法少女のアニメのイラストが描かれたペンケースを持っていた。他にも鉛筆や消しゴムといった学校に持ってきても支障のない文具にイラストが描かれていると人は寄ってきた。
私はテレビを見る習慣がなく、そのアニメにも、グッズにも惹かれなかった。独りぼっちになりたくなくて、興味のあるフリをして輪に加わっていた。
小学校で人気者になるにはもう一つ方法がある。
それは足が速いことだ。
アニメのグッズを持っていなくても、足が速いだけで人気者になれる。年度の初めに行われる体力測定。そこでクラス内で一番速く五十メートルを駆け抜けた人は一躍スターになるのだ。男女問わず最速の足を持つ人には「カッコいい」という言葉が投げかけられる。
私は運動音痴ではないけれど、秀でてもいなかった。
だから私の周りには人集りはできなかった。人気者に群がる大勢のうちの一人になるしかなかった。共通の話題を持っていなければ仲間で居続けることが出来ない。だから、興味のないアニメやバラエティ番組を見た。名前も顔も知らなかったアイドルの音楽を聴いた。音楽番組や動画配信もチェックした。どれも私にはハマらなかった。
「ねえねえ、昨日の配信見た?」
と朝一番に教室で、クラスの誰かが声を上げる。
「見た見た!」
「面白かったよね!」
「カッコ良かった!」
感想が飛び交う中、私も「面白かった」と賛同する。秀でた、奇を衒ったコメントは必要ない。そんなことを言えば、反感を買うことになる。周りと同じ意見を言うことでクラスメイトたちと同調し、私はクラスの中での立ち位置を明確にしていた。人気者でもなければ、仲間はずれでもない、中心から一歩下がったところ。そこが私の居場所だった。
輪の中にいた一人が、
「昨日、寝ちゃって見れなかったんだよね」
と言うと、他の誰かが、
「えっ、そうなの? 残念だね」
とケラケラ笑いながら言った。談笑している時の笑顔とは違って、人を蔑むような気持ち悪さが含まれていた。
何が残念なのだろう。配信された動画はアーカイブが残っており、今日でも明日でも見ることができる。見ることができなかったことに対して残念という言葉は不適切だった。
配信を見れなかった彼女……ええっと、誰だっけ? 名前は思い出せない。彼女は、そっと一歩後ろに下がった。
彼女のその行動で私は察した。みんなと会話を共有できない人は少しずつ輪から外されていく。だから笑いながら残念と言ったのか。
某さんは、翌日にはアーカイブを確認してきていたけれど、その配信の話題は昨日で終えられている。今更その配信が話題に挙がることはない。それから、某さんは今までいた場所よりも一歩下がった場所で輪に加わるようになった。
人との関係を保つのはこんなにも難しい。
一人にならないようにと、人気者たちに縋るように群がる。
その群れから外れた者は一人で生き抜いていかなければならない。
輪の中に居続けることに対して、これだけの努力が必要とされるのに、見返りは少ない。クラスの中で一人にならないために多くの代償……時間、労力を払い続けた。
私は人の輪の中にいる努力をすることに対して嫌気が差していたのに、一人になることも嫌だった。
「あいつ、いつも一人だな」
影で無責任に物を言われることも注目されることも嫌だった。困ったときに助けを求められないことも私には苦痛だ。一人で生きていけるほど、私は強くない。だから、コミュニティに属していなければならないと思った。
人の気持ちなんて分かるわけがないだろ! と思っていた私も、小学校を卒業するころには考え方も少し変わってきていた。大人はみんな「相手の気持ちを考えろ」と言うし、授業ではクラスメイトが相手の気持ちが分かっているような発言をする。もしかしたら、努力が足りていないだけで、私も人の気持ちを察することが出来るのではないだろうか。
卒業式でクラスメイトが、「今までありがとう」と泣いていた。今生の別れでもなければ、全員同じ中学へ進学する。この学校に愛着があるとも思わない。普段から「あの先生うざい」「早く卒業したい」と言っていたのに、何に対して彼女は泣いていたのだろう。一番仲が良かった友人の頬にも涙が伝っていた。卒業式に生徒が流す涙はきっと星のような輝かしいものとして例えられる。だが、私には単なる生理食塩水にしか見えない。みんなが泣き、涙の意味も理解できない。その涙も神聖なものではなく、陳腐なものに見えた。
涙を流す友人に、
「なんでそんなに泣いているの?」
と聞くと、
「だって、悲しいでしょ」
と彼女は言った。
私には分からなかった。悲しい? 何が?
だけど、多くの生徒は涙を流しているし、そうでない人も涙が目から零れないように我慢をしていた。皆が同じ気持ちでいる中、私だけが違っていた。
この時、気付いたのだ。
ああ、違うのは私なんだ。私が人の気持ちを理解していないのだ。誰もが他人の気持ちなんて分かるはずがないと考えていたけれど、なんと烏滸がましいことか。分かろうとする私の努力が足りていないだけだと気付いた。
つまり、私は変わらなければならないのだ。
人の気持ちが分かる人間にならなければならない。しかし、そのために人目を気にするようになった。
どちらも生きづらく、人付き合いが上手な人間とはほど遠い場所にいるのだろうとは分かっていた。
小学校を卒業し、次に中学を卒業した。
そんな私は今も人の気持ちが分からないまま。
一人でいることは恐ろしく、誰かと一緒にいたい。そのための努力は苦痛だった。
輪の中にいる自分を俯瞰する。いたくもない場所に居続けるために、したくもない努力を続ける自分。その矛盾した気持ちを持ち続ける自分が気持ち悪く感じた。
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