私の楽園 四

 気が付くと、私の手をEが強く握っていた。目の前には私を見つめている怪物の姿があった。

 私がその場から立ち去ろうとすると、怪物は唸り声を上げて私に飛び掛かってきた。

「マミ、マミ――」

 私が暴れて怪物の腕を振りほどこうとすると、怪物は私を抑えつけたまま、静かに口を開いた。

「もどって、おいで」

 その声は、しわがれた怪物の声ではなく――お母さんの声そのものだった。

 私は、お母さんのことを思い出していた。

 知識が豊富で、わからないことがあればすぐに教えてくれるところ。色々な本や映画を教えてくれるところ。普段は真面目だけれど、時おりふざけて一緒に冗談を言ってくれるところ。

 すごく好きだと思うところもあれば、そうでないところもある。できることなら仲良くしたかった、けど――

 私は、両手を握りしめておびえているEの顔を見た。

「……E、ナイフを出して」

 私はEからナイフを受け取ると、怪物の足に思いっきり突き刺した。

 怪物は、大きな悲鳴を上げた。

「行こう、E」

 体の震えを抑えながら、私はEとその場から逃げた。

 息が切れ、走れないぐらいに足が震えてきたところで振り返ると――

 怪物はもう、追ってきてはいなかった。

「E、大丈夫?」

 私が尋ねると、Eは私を見上げてにっこりと微笑み、うなずいた。

 たとえこの先、何が襲って来ようとも――私はEと、この場所を守りたい。

 だって――この場所が、私にとっては唯一の安寧の地なのだから。


 ――時子は、ゆっくりと体を起こした。

 どうやら朗読中に疲れて眠ってしまったらしい。全身が嫌な汗でびっしょりと濡れ、頬の下で開かれたままのアクセント辞典のページがふやけてしまっていた。 

 ――ふと、時子は足に鋭い痛みを感じ、足元を見て目を見開いた。

 すねの真ん中がぱっくりと裂け――そこから、だらだらと血が流れていた。

 どこかでったりしただろうか――と記憶を辿りながら、時子は先ほど見た嫌な夢との関係を思わずにはいられなかった。

 夢の中だったとしても、真美にやっと会えたのに――

 あのおびえた目は、まるで時子のことを軽蔑し、拒否しているかのようだった。

 親である自分に、まさか真美が刃物を投げつけて来るなんて。自分に敵意を剥き出しにした娘の姿を見て、時子は動揺して動くことができなかった。

 ――どうでもいい。ただの夢だ。

 時子は自分の考えを振り払うように、首を横に振った。

 あんなこと、真美がするはずない。だってあの子は――

 私の、自慢の娘なのだから。

 真美の写真を見ようとして鏡台に近付いた時子は、鏡に写っている自分の顔が醜く歪んでいるように見えてはっとした。

 ――が、よく見ると、普段通りの疲れた中年女性の顔だった。暗かったから見間違えたのだろうと、時子は苦笑した。


 ――それからどれぐらいの時が経ったのか、私にはわからない。

 あれ以来、怪物はここに来ていない。けれど、またいつ襲われるかはわからない。  

 私は次第に、自分の両親や友人の姿を思い出せなくなってきていた。

 ここでは不思議なことがたくさん起こるから、あれ以上の脅威に晒されることもあるかもしれない。けれど――

 私はもう、Eを一人にしたくない。

 Eがどこから来てどういう生き物なのか、私にはわからなかった。髪の毛も目も鼻も口も全てが真っ白で、少女の姿をした存在。人間ではないことは確かだけど、そんなこと、私にとっては些細ささいなことだった。

 こうしてEと出会えたことと、Eが私をこの世界に呼んでくれたことが――とても大切で、ありがたかった。

 ある日、私がEと散歩をしていると、ぽっかりと開いた縦長の穴を見付けた。はるか昔にこの世界に現れた怪物のことを思い出して、私は身構えた。が、いくら待っても、穴からは何も出てこなかった。

 穴の傍を通り過ぎようとした私は、ふと、向こうの世界がどうなっているのかが気になった。

 私が穴の向こうに行ってきても良いかと尋ねると、Eはうなずいた。

 ゆっくりと穴の中に足を踏み出すと、いつかと同じように、私の体は白い光に包まれた。


 そこはロフトベッドの上ではなく、見知らぬ病院の個室だった。

 窓の外は曇っていて、室内は薄暗い。とても静かで、心電図モニターの規則的な音だけが響いていた。

 私はベッドに近寄り、横たわっている患者の姿を見下ろした。

 患者は、しわだらけの痩せ細った老婆だった。人工呼吸器を付けて様々な機械に繋がれているその老婆の呼吸はか弱く、彼女はもう余命いくばくもないように見えた。

 老婆の顔を見つめていた私は、ふと、あることを思い立った。

 この老婆は――ひょっとして、私の母親ではないだろうか。

 私はずいぶん長い間母に会っておらず、写真すら見ていないので、記憶の中での母の姿はおぼろげだった。それでも私が、この老婆のことを母だと思ったのは――心のどこかにずっと、母への心残りがあったからかもしれなかった。

 老婆は薄く目を開き、私に向かって口を動かした。声がか細くて聞き取れなかったので、私は老婆の口に耳を近付けた。

「マ、ミ……マミ……」

 ――ああ、やっぱり。

 私はそっと、老婆の手を握った。

 結局私は母のことが好きだったのか、憎んでいたのか。

 愛してほしかったのか、愛せなかったのか。

 何もかもがもやもやとして、よくわからなかった。

 心電図モニターが警告音を発して、画面に『0』という数字が表示された。

 ――そのまま母は、静かに息を引き取った。

「……さようなら、お母さん」

 私は母の手を離し、ゆっくりと微笑んだ。

 病室の窓には、中学一年生のままの私の姿が映っていた。

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私の楽園 ねぱぴこ @nerupapico

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