私の楽園 三

 時子は自分の部屋で、ショ―トケ―キを食べていた。

 部屋は暗く、デスクライトの明かりだけが周囲をぼんやりと照らしている。

 ――真美がいなくなってから、一年以上が経った。

 もしここにいれば、今日は真美の十三歳の誕生日だ。

 新造は、真美が戻って来ることを諦めているのだろうと思う。真美がいなくなってから夫婦の会話は必要最低限になり、ある時期から彼は娘についての話題をまったく出さなくなった。

 けれど――時子は、まだ諦めきれなかった。

 真美の子育てに捧げてきた時間、真美のために貯めてきたお金、周囲に大学が多いからと、真美の将来のために買ったマンション……。

 真美がいなくなったことを認めてしまうと――それらのすべてが、一瞬で無駄になってしまうような気がした。

 時子は鏡台の前に座り、そこに置かれていた写真立てを手に取った。

 写真が嫌いだった真美を、時子がなんとか説得して撮った一枚。真美はカメラから顔を背けるようにして、ぎこちなく笑っている。

 時子はガラスの上から、真美の顔を指で撫でた。

 

 モルフォチョウ、シマエナガ、ミナミコアリクイ、ミーアキャット、フトアゴヒゲトカゲ……。

 好きな動物に囲まれて、私はEと幸せに暮らしていた。

 ふと私は、この世界に来てからずいぶん長い時間が経った気がするのに、Eの姿がまったく変わっていないことに気が付いた。

 ここへ来てから、もう一年ぐらいは経った気がする。とはいえ月日が確認できるようなものもないから、正確にはわからなかった。

 私は、Eにカレンダーを出してもらうように頼んだ。が、Eは一瞬きょとんとしたあと、悲しげな顔をして首を横に振るだけだった。

 どうやらEは、時間にまつわる物を出すことができないらしい。

 ここでの生活しか知らないEは、色々なものを出すことはできても使い方がわからない。食事はできるけれど、食べなくても生きていける。ここに来る以前のことはまったく覚えていないようで、尋ねても何も答えてはくれなかった。

 それならと私はEに手鏡を出してもらうように頼み、鏡に映った自分の顔を見た。

 鏡の中の私は髪すら伸びておらず、以前ここに来た時とまったく変わらない姿で――まるで中学一年生の頃から、時が止まっているかのようだった。

 私が顔を上げると、傍にいたEがあらぬ方向を見て立ちすくんでいた。

「E、どうしたの?」

 Eは両腕で自分の体を包み込み、がたがたと震え始めた。

「真美。――真美、あれが来る」

「……あれって?」

 白く濁った目を見開いて、Eは遠くの一点をじっと見つめていた。その先の空間に――誰かがナイフで切り裂いたように、縦に細長い穴が開いた。

 その穴から、灰色の怪物が姿を現した。

 怪物は人型だがその頭は螺旋状らせんじょうにねじれており、巻いた渦に歪んだ目と大きな口が付いている。手足は異様に細長く先端が曲がっていて、爪は鋭利に尖っていた。

 怪物は、もしかしたら元は人間だったのかもしれないが――今はほぼ、その面影はなかった。

 怪物はきょろきょろと辺りを見回しながら、低くてしわがれた声で何かを喋っていた。よく耳を澄ますとその声は、マミ、マミと私の名前を呼んでいるように聞こえた。

 ――やがて怪物はその場にしゃがみ込み、両手で顔を覆った。怪物の口からは嗚咽おえつが漏れていた。

 どうやら怪物は、泣いているようだった。

「おかあ、さん……?」

 私はそう言いながら、怪物に近寄った。

「マミ――」

 突然、私の目の前にあった怪物の頭がほどけていった。目、鼻、口がばらばらに付いた頭が放射状に分かれ、いびつな花の形のように広がり――そのまま私は花の中心に飲み込まれて、目の前が真っ白になった。


 ――目を開くと、私は見慣れたロフトベッドの上にいた。

 そっと体を起こして辺りを見下ろすと、私の部屋はたくさんの物で溢れ返っていた。

 リビングにあった小さい棚、CDラジカセ、古びた椅子……。私の部屋は、いつの間にか物置きになっていた。

 けれどここは、間違いなく私の部屋だ。お母さんに食べられて、私は現実に戻ってきてしまった。

 私は、忍び足でお母さんの部屋に向かった。ドアの隙間から部屋の中を覗くと、机に突っ伏して眠っているお母さんの姿が見えた。

 お母さん――と声をかけようとして、私は足を止めた。

 それ以上、前に進めなかった。

 その時私は、はっきりと思ってしまった。

 もうこれ以上、お母さんの期待には応えたくないと。

 部屋に戻ると私は目を閉じ、布団にくるまった。

 そしてまた、どこかへ行きたいと強く願った――。

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