第4話 この婚約を手放したくない理由


「心の声が漏れる呪い……?」


 ……予想だにしない自白だった。


 顔を歪めることしかできなかった。


「フランツ様は迷宮で怪我を負った際、同時に呪いを掛けられてしまったのです。心で思った事の全て、口に出てしまうというまことに厄介な呪いに」


 ゴードンの落ち着いた説明が、書斎内に響き渡る。

 

「だから、お前との接触を避けていたんだ。信頼できない奴に俺の思考は読まれてほしくないからな」

「……そのようなことだったのですね」


 その言葉に、フェンリルは一瞬、何も返せなかった。


 信頼がないことは、すでに自覚していたつもりだった。しかし、こうして直接告げられると、結婚生活三年という積み重ねが、想像以上に重くのしかかる。それでも、不貞や愛人関係の話ではなかったことに、ほんの少し救われる思いがあった。


「ありもしない疑念を抱いてしまい、心よりお詫び申し上げます」

 

 ただ今は、その言葉を口にすることが、何よりも重要だった。


 フランツがこんなにも苦しんでいる間、自分は彼を不貞の疑いで見ていた――彼の苦悩に気づかず、根拠のない疑念にとらわれていた自分は、許されるべきではない。


 そう、フェンリルは強く感じていた。そして、再び頭を深く下げ、静かに言葉を紡いだ。


「……旦那様のご心情を考慮できず、深くお詫び申し上げます」

「全くだ」


 フランツの短く冷たい返答が、耳に重く響いた。不服そうな表情を浮かべ、彼はただ、机の上に散らばる書類へと視線を戻し、再びペンを走らせた。


 向けられた背中をじっと見つめたフェンリルは胸の奥で自己嫌悪が湧き上がった。


「……その、お力になれるかは分かりませんが、私にできることがございましたら……どうかいつでもお申し付けください!」


 そして、思わず声を張り上げた。彼の背中が、いつもよりも遠ざかっていく気がしたからだ。そんなことを言えば迷惑になるのではないか、という不安はどこへやら、フェンリルの表情には、同情が深く刻まれていた。


「お前にできることなどない」


 フランツはデスクにしがみつくかのように振り返ることなく、そう彼女に言い放った。


 が、本音はまるで別のものだったようだ。


《フェンリルの手助けか……頭を撫でてほしい……がそんなことを言えば、気持ち悪がられるだろうな》


「え……?」


 思わず、はっきりと聞こえた戯言にフェンリルは反応した。

 

「い、いや……今のは……何でもない」


 フランツは慌てて振り返り、軽く言い訳をすると、またデスクに視線を戻した。手は緊張で震え、机の上の紙が微かに揺れていた。

 

 顔が赤くなっていたのだ。

 

 そこで、フェンリルはゆっくりとフランツの背後に近づいていった。


「こ、これでよろしいのでしょうか……旦那様?」


 突如として、フェンリルは彼の頭を撫で始めたのだ。

 

 彼女の手がフランツの頭に触れた瞬間、彼は驚き、硬直した。指先の温もりが彼の思考を遮り、心臓が高鳴る。そして、フェンリルの目はとにかく真剣そのものだった。


「……な、何を……する……」


 フランツは狼狽し、思わずフェンリルの手を頭から払いのけた。その様子に、部屋の隅で見守っていた執事のゴードンが思わず失笑した。

 

《ダメだ、もう何も考えるな。……このままだと、バレてしまう》


「……バレてしまう? 何のことですか?」

「な、何でもない」


 フランツはあからさまに、動揺の色を見せ始めた。思考を押し込めようと必死になるも、追撃のように彼の心の声が再度、露わになった。


《違うことを考えろ。仕事だ、仕事の事だけを考えろ》


 もはや、その作戦さえも周囲には筒抜け状態にあった。

 フェンリルはその不思議な状況に首をかしげ、興味津々な眼差しを向ける。そして、こう質問した。


「これ……本当に旦那様のお心の声なんですか?」


 髪を手で耳にかけながら、フェンリルは無意識に愛おしさを漂わせ、柔らかな声でそう尋ねた。目が長らく合った末、フランツの思考の中に一つの言葉が静かに舞い降りた。


《……かわいい……》


「……え? か、かわいい?」

「いや、違う! 違うんだ! これは俺の心の声じゃない!」

「……でも、いま確かに……」

「――あああ! もう話にならない! 今すぐに部屋から出て行け!!」


 言葉を遮り、全身で拒絶を示すかのように大声を張り上げた。フランツの顔は赤く染め上がり、視点は定まらない。


「は、はい……失礼いたします!」


 フェンリルが慌てて扉を閉め、その音が部屋に響いた。彼女の足音が遠ざかるのをフランツはただ黙って聞いていた。完全にいなくなったことを確認すると、ふっと力が抜けて深く息を吐く。そして、心の中で自分に問いかけた。


《……何をしているんだ、俺は……》


 フランツの頬はまだ赤らんだままで、心の中で葛藤が渦巻いていた。


《今まで、隠してきたのに……クールを演じてきたのに…………このままだとバレてしまう、本当はフェンリルを愛して、愛してやまないことが!!》


「その心の声も漏れ出てしまっておりますよ、フランツ様」


 と小馬鹿にするように微笑むゴードンに、フランツはイライラして言い返した。


「ゴードン、お前も早く出ていけ!」

「承知いたしました……しかし、これは良いきっかけとなったのではございませんか? フランツ様は以前から、フェンリル様の前で素直になれずにお悩みであったかと」

「そ、そうだが…………ああ、もうさっさと出ていけって!」



 その頃、フェンリルは理由もなく、広々とした廊下を歩き回り、無意識に頬を赤らめていた。彼に本心を聞くことができて、彼女自身の気持ちにも少し変化があったはずだ。

 

 この政略結婚は所詮、家族のためのもの。

 ハーデンバーグ家を救うためのもの。

 いつもそのことばかりを考えていたフェンリルだった。

 しかし、


 

 どうやら、それ以外にこの婚約を手放したくない理由が、新たにできたようだった。


 

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この婚約を手放したくない理由 ハチニク @hachiniku

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