第3話 心の声が漏れる呪い


 ――そんな関係が続いていた結婚四年目のある日のこと。


「フェンリル様、大変でございます! フランツ様が……迷宮で怪我を負ってしまったようで……!」

 

 物静かだったエルバウム家の広間で、予期せぬ不安が押し寄せてきた。ゴードンの声が、華やかなシャンデリアの下で響いた。

 

 フランツは曹長として三週間、リエルという地で迷宮探索に従事していたが、その途中で重傷を負ったという連絡が入ったのだ。


「……だ、大丈夫でしょうか……」

「状況はまだ完全には把握できていないとのことです……無事であればよいのですが……」


 ゴードンは目を伏せ、困惑した表情を浮かべながらそう答えた。


 彼の低身長で小太りな体が、微かに震えていた。

 その様子を見たフェンリルは彼を安心させるかのように、


「……きっと大丈夫です。旦那様はお強いですから」


 と一言だけ告げた。ただ、その言葉は、確信というより、祈りに近いものだった。


「そ、そうでございますね!!」


 その言葉に救われるように、ゴードンは強く頷く。ただ、その不安が消えることはなかった。その後も、数日間は心配し続けるゴードンを、フェンリルが何度も宥める日々が続いた。


 そして、ある日、フランツが部下と共に馬車に揺られて屋敷に戻ってきた。


 重傷を負ったという報告から実に四日後のことだった。

玄関前に馬車がゆっくりと停まると、フランツは重い足取りで車を降りた。杖に頼りながら、一歩一歩慎重に足を運ぶ姿は、包帯に覆われた体とともに痛々しく映る。


「フランツ様ぁ!! ご無事でいらっしゃいましたか!? こんなにも包帯を巻かれて……さぞやお辛かったことでしょう!」

「あぁ、心配をかけたな……」 


 ゴードンが玄関先で声を上げ、急いで彼の元へと駆け寄った。肩を貸そうと杖をつく方の脇に並び、手を伸ばすが、背の低いゴードンの肩はフランツには到底、届かなかった。


 それでも必死に肩を貸して、支えようとするその気持ちは、真剣そのものだった。


「だ、旦那様……大丈夫ですか?」

 

 玄関ドアの内側から顔だけを、まるで子供のようにひょっこりと覗かせて、フェンリルはそう言った。


 その声を聞いたフランツは一瞬だけ彼女の方を見やるが、何も答えない。すぐに視線を外し、代わりに、傍に立っていたゴードンにそっと耳を寄せて、フェンリルに聞こえぬよう静かに囁いた。


「ゴードン、彼女を俺に近づけるな。分かったか?」

「え? なぜでございますか?」

「理由は後で説明する」


 フランツの声には冷たさが含まれていた。それを聞いたゴードンは一瞬ためらったが、すぐに従順に頷いた。


「承知いたしました」


 その言葉を受けて、ゴードンは急ぎ足でフェンリルの腕を優しく掴み、屋敷内へと案内した。


 磨かれた木の床が足音を響かせ、廊下を進むと、壁に飾られた絵画や古い家具が、静けさの中にひっそりと佇んでいる。


 ゴードンはそこでフェンリルに小声でこう告げた。

 

「フェンリル様……フランツ様の体調が優れるまでは、接触を避けるようお願い申し上げます」


 その言葉を聞いたフェンリルは驚き、眉をひそめた。

 

「接触を……ですか? ……かしこまりました……」


 その反応にも十分頷ける。形式的とはいえ、フランツは彼女の夫。看病でもして、少しは役に立ちたいと思っていた矢先の接触拒否だったのだ。



 屋敷の広間で、フランツが杖をつきながら慎重に歩いているのが見えた。接触しないようにと注意を受けていたが、心配が胸を締め付け、フェンリルは思わず声を掛ける。


「だ、旦那様……ご体調はいかがでしょうか……?」

「……あぁ、平気だ」


 そのまま、嫌そうな顔でフェンリルを見つめる。


「接触するな、と言ったはずだが」


 その言葉に、フェンリルは一瞬言葉を失ったが、すぐにうなだれながら答えた。

 

「……はい。大変、申し訳ございませんでした」


 彼女の声は小さく、申し訳なさが溢れていた。そそくさとその場を去ろうとすると、何となく微かな声が聞こえた気がした。


《…………すまない、フェンリル》


 思わず振り返ったフェンリルは、問いかける。


「……? 何か仰いましたでしょうか?」

「……いや、何も言っていない」

「私の名前をお呼びになった気がいたしますが……」


 そこで、二人が話しているのに気づいたゴードンは焦った様子ですぐさま、彼女たちの間に入った。


「フェンリルの様……! こちらにお越し願えますでしょうか!」

「……? はい……」


 フェンリルはその声に思わず顔を上げ、少し戸惑いながらも素直に従った。


 視線の先には、無言で自室に戻っていくフランツの姿があった。


「フェンリル様、接触は控えるようにと、私が申し上げたことをお忘れですか?」

「……申し訳ございませんでした……」


 ゴードンの声は、穏やかなトーンであったが、その奥には責任感がひしひしと感じられた。


 しばらくの沈黙が流れた後、彼女は深呼吸し、意を決したように顔を上げた。周囲には静寂が漂い、遠くから聞こえる小鳥のさえずりが微かに響く中で、声がこだまする。


「そ、その……ゴードン様! 旦那様が私をこれほどまでに避ける理由は、一体何なのでしょうか?」


 その問いかけに、ゴードンは一瞬ためらった様子を見せた。


「……避ける理由……ですか」


 フェンリルの心臓が高鳴り、思い切って続けた。


「不貞の所為でしょうか……?」


 その言葉を口にするのは容易ではなかった。しかし、それが最近のフェンリルの心を重くしていることは事実だった。

 

 フランツは以前から彼女に興味を示すことはなかったが、最近は特に冷たく感じていた。

 目を見てくれなくなった事。

 会話が短くなっていく事。

 終いには、接触を拒んできた事。

 相まって、彼に愛人ができたのではないかと、心の奥底でフェンリルは思うようになった。


 ただ、彼女に婚約解消のつもりはない。たとえ何があったとしても、その苦い現実を受け入れる覚悟は、婚約前から確かにあったのだ。


「フェンリル様……私の口から申し上げるべきことは何もございません……」

「……そ、そうですか……」


 微かな風が窓を揺らし、カーテンがゆらりと舞った。ゴードンはため息をひとつついて、少し顔を曇らせた。

 

「とりあえず……フランツ様の書斎へ向かうといたしましょうか」

「……? はい」


 ゴードンは深い思索の末、何らかの秘密を抱え込むことをやめたようだった。その口調には、少しのためらいとともに、決意が見えた。

 

 彼は静かに書斎のドアをノックした。


「ゴードンでございます。今、お時間よろしいでしょうか?」

「あぁ、構わない」


 ドアを開けると、フランツの書斎が目に飛び込んできた。

 

 薄暗い室内は、壁に並ぶ本棚に囲まれる。デスクの上には整然と並べられた書類とインク壺が、知的な静けさを感じさせ、フランツは背中を向けて熱心に何かを書き込んでいた。


 ペンが紙に擦れる音が、静寂の中に響く。


「先ほどは危うい状況でございました。やはり、あの件はフェンリル様にもお伝えすべきかと存じます。」

 

 沈黙を破るように、ゴードンが口を開いた。

 

「――いや、それだけはできない」

「とはいえ、いつまでも秘密を隠し通すわけにはまいりません」

「なんだ? 接触を減らせばいいだけのことじゃないか」


 何を話しているのだろうか、とフェンリルの心に疑問が湧く。秘密――。やはり不貞の件なのだろうか。

 

 しかし、彼女は覚悟を決めていた。全てを許し、その全てを受け入れる覚悟を。


「……お、教えていただけませんか!」


 不意に、フェンリルが静かに背後から問いかけた。

 

 その瞬間、ペンの滑らかな動きがピタリと途切れた。フランツは顔を上げ、彼女の存在を捉えた。


 彼の表情にはわずかな驚きが走り、次いで顰めっ面が浮かぶ。眼差しには、威圧感も滲んでいた。


「おい、なぜ部屋の中にいる」

「私が連れて参りました。……さぁ、フランツ様。フェンリル様に直接、お伝えくださいますよう。」

 

 言葉に詰まり、内心で揺れ動いているフランツの様子が見て取れた。秘密を明かすべきか、それとも黙っているべきか。

 

 彼の迷いを察したフェンリルは、思い切って言葉を投げかけた。


「旦那様、心の準備はできているつもりです……女性関係についても、いとわない覚悟です」


 彼女の脳内には、不貞、愛人、婚約解消の言葉が次々と浮かび上がる。


 ただ、フランツは何も口にしない。やはり、女性関係なのだろう。その確信が、沈黙の中でますます強まる。


 ――すると、不意に声が漏れた。


《……そういうのじゃないんだ、フェンリル》


 フランツの声だが、彼の唇は動いていなかった。そして、その声はいつもよりも柔らかく、心に触れるようだった。

 

「え……?」


 思わず、フェンリルは驚きの声を出した。


「お口に出して、直接、仰った方がいいと存じますよ、フランツ様」


 ゴードンのその言葉に促され、フランツはゆっくりとフェンリルの目を見据えた。まるで重い決断をするかのように口を開いた。


「迷宮で呪いにかかったんだ」


 その言葉に、フェンリルの心臓が激しく鼓動を打つ。


「呪い……?」


 聞き返す声が震える。


 緊張が張り詰める中、フランツは口を閉じたまま、心の奥底に響く声を彼女に届けた。


《心の声が漏れる呪いだ》

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