夏の大三角

亜咲加奈

夏の大三角

 芹澤さん、もうあやまらなくていいですよ。

 そう伝えると、芹澤さんは足を止めてあたしを見た。

 今日の夜空はよく晴れて、夏の大三角がよく見える。

 市民吹奏楽団の練習が終わったのは午後九時。遅いけどあたしは同じパートの芹澤さんを夕ごはんに誘った。そのあと二人で駅まで歩いてる。

 街灯やらオフィスビルの明かりやらで星は少ししか見えないけれど、大三角はかろうじて見える。

「こういう日は星を見上げるといいよって、母がいつも言ってたんです」

 定期演奏会を来月に控えて、練習のために借りている市立文化会館の小ホールの雰囲気は週を追うごとにピリピリしてくる。特に今日は最悪だった。

 ――テナーサックス、何か違う。違うんだよ。

 指揮者の越智さんが貧乏ゆすりしながら言う。市内のディーラーに勤めてる。職場では笑顔と優しい口調を絶やさないって聞いてるけど、あたしたちには愛想がない。

 ――すみません。

 芹澤さんが頭を下げる。

 ――謝罪はいらないよ。さっきのとこ、もう一回。

 言葉にトゲを千本くらい生やして、越智さんはタクトを構え直したのだった。

「越智さん、直してほしいところ、具体的に言ってくれればいいのに。芹澤さんもそう思いません?」

 芹澤さんは三十五歳。大学一年生のあたしより十六歳年上の銀行員、あたしが最近気にしてる人。独身で、結婚も妊娠も出産もしたことがない。本人がそう話してた。

 芹澤さんが苦笑いする。

「でもさ、音楽ってそうじゃない? 言葉にしにくい所、ない?」

 あたしのママは県立高校で音楽を教える先生だった。最後の勤務校では吹奏楽部の顧問も務めていた。

 ママのママ、つまりあたしの母方のおばあちゃんに連れられて、定期演奏会に毎年行ってた。

 演奏会でタクトを振るママと部員たちは、いつもにこにこしていた。

 演奏会で、あたしたちの前に座ってたおとなが話してた。どうやら吹奏楽部のOGらしい。

 ――葉室先生って、絶対生徒をけなさなかったよね。具体的に指示してくれたし、直し方も具体的に言ってくれたからすぐできたよね。

 ――そうそう! だからうちら続いたんだよね。前の顧問と真逆だったからね。

 おばあちゃんがその会話を聞いて、目頭をハンカチで押さえたのを覚えてる。

 吹奏楽部は野球部の公式戦の応援にも駆り出される。ママはパパと最後の勤務校で出会って結婚した。パパは硬式野球部の監督だった。

 ママの帰りはいつも午後七時。あたしと弟を保育園に迎えに来てくれたのはいつも母方のおばあちゃん。だからあたしたちはおばあちゃんの家でママを待っていた。

 ――お星さま見に行こう。

 ママは帰るなりあたしたちを外へ連れ出す。

 おばあちゃんの家の庭から星を見上げる。

 ――ほら、あれとあれとあれをつないでごらん。

 それが夏の大三角だった。

 いつも星を見上げていたわけではない。あたしと弟を星空の下に連れ出す時のママのマスカラは決まっていつもはがれ落ちていて、目の下が黒かった。頬には涙のあとが見えた。

 ママと星空を見上げたおばあちゃんの家の庭を、あたしはプラネタリウムと名づけた。

 だけどママは体を壊して入院し、病院で息を引き取った。

 おばあちゃんは泣いて、泣いて、あたしたちでさえ声をかけることが難しいほどだった。

 そんなおばあちゃんを見かねたママの妹が、おばあちゃんに同居を勧めた。おばあちゃんもママの妹の家族と一緒に暮らすことを決め、あたしたちがママと星空を見上げた庭のあるあの家を売りに出した。すぐに買い手がつき、あたしたちのプラネタリウムは人手に渡った。

 ――プラネタリウムが盗まれた。

 小学一年生だったあたしは、その出来事をそのようにとらえた。

 芹澤さんのさっきの言葉にあたしは静かに優しく反論する。

「それを言葉にするのが指揮者だと思いますけど」

 あたしは芹澤さんにほほえんだ。

「もっと具体的に指示してくださいって、あたしたち演奏者は言っていいと思います」

 芹澤さんが出す音はとても綺麗だ。隣にいるあたしは聞き惚れてしまい、演奏をとちることもしょっちゅうなのだ。

「できるかなぁ。越智さん、怖いし」

「あさって、もしまた言われたら、あたし、言ってみようと思います」

 あたしはまた夏の大三角を見上げる。

 ママは泣いた日に星空を見上げた。

 あたしは勇気を出したくて、見上げている。

「芹澤さんに越智さんが何か言ったら、あたし、言いますから」

「そんな、いいよ、美咲ちゃん」

「大丈夫です」

 あたしは芹澤さんの手を握った。

「ほら、見てください。大きい三角があるでしょ。夏の大三角です」

 芹澤さんがとがった顎を上向ける。

「何と何と何だっけ、名前があるんだよね、一つ一つに」

「ベガと、アルタイルと、デネブです」

「壮大だよね」

「越智さんの小言なんて、小さい小さい。もう芹澤さん、あやまらなくていいですよ」

 あたしの好きな人が、トゲトゲした言葉をぶつけられなくて済むようにしたい。

 芹澤さんの手は、あたしの手の中にある。

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夏の大三角 亜咲加奈 @zhulushu0318

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