第89話


「悪いな、休みの日に。奥さん怒ってなかったか?」


村瀬は、5分ほど遅れて喫茶店へと入ってきた井上に両手を合わせた。


「あ、あぁ。うちは問題ないよ。休みだからって、いつも家にいたら息が詰まるよ」


井上が苦笑いを浮かべる。


自然とその仕草を探るように見てしまっている自分に気が付き、村瀬は慌てて口を開いた。


「そんな夢も希望もないこと言わないでくれよ。俺はこれから結婚しようとしてるんだから」


「そうだったな。結婚前くらいは、夢みていたいよな。結婚は人生の墓場なんて……よく言ったもんだよ」


井上はわざとらしく肩をすくめた。


その言葉に、村瀬は自然と頷いていた。


亜矢とはまだ結婚したわけではなかったが、“墓場”という表現はわかる気がした。


相手がいるということは幸せなことだが、それは同時に制御を余儀なくされる。


村瀬は亜矢に妹探しよりも結婚を急かされ、亜矢は村瀬のせいで結婚式が遅延の危機にさらされている。


今は両者にとって、互いの想いがマイナスに働いていて、譲歩するには厳しい状況だった。


「やっぱりあれか? 隣の芝生が青く見えたりするもんなのか?」


「なんだよ、唐突に」


村瀬の問いに、井上が腕組みをする。


井上の言動を見逃さないように、村瀬は全神経を集中させた。


鎌をかけたつもりだった。


「そうだな……。ま、生物学的にオスは多くの遺伝子を残したがるものだしな。長く一緒にいれば、他に目がいかないこともないだろうな」


井上が困ったように眉尻を下げて笑う。


その様子から真意を読み取ることは難しかった。


絵理香と関係があったようにも、なかったようにも思える。


兄の村瀬に感づかれないために、あえて一般論を唱えたとも考えられた。


井上に動揺した素振りは見られない。


それはバレない自信があるからかも知れなかった。


「もしかして……マリッジブルーか? 男にもあるらしいぞ。それとも、亜矢さん以外に気になるコでもいるのか!?」


井上がニヤついた表情で村瀬の顔を覗き込んでくる。


「そ……、そんな訳ないだろ。先輩の意見を色々聞いておこうかと思ってさ」


村瀬は動揺を隠そうと、グラスに注がれていた水を一気に飲み干した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る