第89話
◇
「悪いな、休みの日に。奥さん怒ってなかったか?」
村瀬は、5分ほど遅れて喫茶店へと入ってきた井上に両手を合わせた。
「あ、あぁ。うちは問題ないよ。休みだからって、いつも家にいたら息が詰まるよ」
井上が苦笑いを浮かべる。
自然とその仕草を探るように見てしまっている自分に気が付き、村瀬は慌てて口を開いた。
「そんな夢も希望もないこと言わないでくれよ。俺はこれから結婚しようとしてるんだから」
「そうだったな。結婚前くらいは、夢みていたいよな。結婚は人生の墓場なんて……よく言ったもんだよ」
井上はわざとらしく肩をすくめた。
その言葉に、村瀬は自然と頷いていた。
亜矢とはまだ結婚したわけではなかったが、“墓場”という表現はわかる気がした。
相手がいるということは幸せなことだが、それは同時に制御を余儀なくされる。
村瀬は亜矢に妹探しよりも結婚を急かされ、亜矢は村瀬のせいで結婚式が遅延の危機にさらされている。
今は両者にとって、互いの想いがマイナスに働いていて、譲歩するには厳しい状況だった。
「やっぱりあれか? 隣の芝生が青く見えたりするもんなのか?」
「なんだよ、唐突に」
村瀬の問いに、井上が腕組みをする。
井上の言動を見逃さないように、村瀬は全神経を集中させた。
鎌をかけたつもりだった。
「そうだな……。ま、生物学的にオスは多くの遺伝子を残したがるものだしな。長く一緒にいれば、他に目がいかないこともないだろうな」
井上が困ったように眉尻を下げて笑う。
その様子から真意を読み取ることは難しかった。
絵理香と関係があったようにも、なかったようにも思える。
兄の村瀬に感づかれないために、あえて一般論を唱えたとも考えられた。
井上に動揺した素振りは見られない。
それはバレない自信があるからかも知れなかった。
「もしかして……マリッジブルーか? 男にもあるらしいぞ。それとも、亜矢さん以外に気になるコでもいるのか!?」
井上がニヤついた表情で村瀬の顔を覗き込んでくる。
「そ……、そんな訳ないだろ。先輩の意見を色々聞いておこうかと思ってさ」
村瀬は動揺を隠そうと、グラスに注がれていた水を一気に飲み干した。
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