第70話

「今日はいつもより遅かったのね」


村瀬が部屋に戻ると、婚約者の亜矢が来ていた。


付き合ってしばらくして、村瀬は亜矢に合鍵を渡していた。


だが、今は亜矢にあまり家に来てほしくないというのが本音だった。


村瀬は無言のまま靴を脱ぎ、乱暴にテレビのリモコンを手に取ると電源ボタンを押した。


見たい番組があるわけではなかった。


亜矢の声をかき消してくれるものなら、犬の鳴き声だろうと、ジェット機だろうと、何でもよかったのだ。


テーブルの上には、結婚式場のカタログが山のように積まれている。


村瀬は台所に立つ亜矢を横目でみやる。


その視線に気がついたのか、亜矢がこちらを振り返った。


「いいところがたくさんあって、どの式場にすればいいのか迷っちゃうわよ。村瀬さんは教会がいい? それとも……」


村瀬は無言のままテレビのボリュームをあげた。


また始まった。


結婚式のこと以外に、何か言うことはないものなのだろうか。


亜矢は村瀬の妻になる女だ。


それは絵理香と義理の姉妹になることも同時に意味する。


結局、亜矢は自分のことしか考えていないのだと村瀬は思った。


両親や友達の手前、結婚式が伸びてしまうのを亜矢が好ましく思わない気持ちもわかる。


だが何も結婚をやめようなどと言っている訳ではないのだ。


村瀬は無意識に里美と亜矢を比べていた。


身内になる亜矢と、全くの他人である里美……。


村瀬は沈んだ気持ちを払拭(ふっしょく)するように、大きなため息をついた。


ポケット中で携帯電話が振動している。


表示されている名前は、井上だった。


携帯電話を手にしたまま、村瀬は繰り返し点滅する『井上』という文字を眺めていた。


信じると言いながら、完全に疑惑を拭い去れない。


普通の態度で井上に接する自信がなかった。


「出ないの?」


何も知らない亜矢が、不思議そうな顔つきで覗きこんでくる。


村瀬は仕方なく着信ボタンを押した。

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