第80話

「まだ捨ててなかったの?」


由香を気遣い、穏やかな口調で尋ねた。


「電話……。電話……。ほら、来る……イヤァァー!」


由香は叫んだかと思うと、両手で耳を塞ぎ、ガタガタと震えはじめた。


忙しなく顔を動かし、視線をあらゆる方向へとむける。


何かに怯えるようにベッドの上を後ずさり、両足をバタつかせる。


背中に壁が当たってもなお、後退しようと必死に足を動かし続けていた。


由香の動きに合わせて、ベッドが激しく軋んだ音をたてる。


蹴られた布団がずり落ち、部屋はさらに乱雑さを増した。


「ほら、聞こえるでしょ? 電話が鳴るの。雅也からの電話が……」


――雅也。


それは、由香の携帯彼氏だ。


「何言ってるの? この携帯電話は壊れてるんだから、雅也から電話がかかってくるなんてあるわけないでしょ」


あるはずがない。


でも由香の怯え方は尋常ではなかった。


胸の中で乾いた風が巻き上がる。


口の中の水分が一気になくなった。


「やめてー!」


耳を塞ぎ泣き崩れる由香と、テーブルの上で黙したままの携帯電話を交互に見つめる。


一体由香の耳には、何が聞こえているのか。


里美には、由香のしゃくりあげる音と、外から届くかすかな車のエンジン音が聞こえているだけだ。


「よく見てよ……」


由香は震える指を携帯電話へと向ける。


着信ランプが――、点滅していた。

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