第78話

反応がない。


耳をそばだてて内側の様子を探ろうと試みたが、物音ひとつ聞こえてこない。


留守なのだろうか……。


沸き立つ不安に、粘り気のある汗が背中を滑り落ちる。


再びチャイムを鳴らすことはためらわれた。


目の前の扉を開いてしまったら、引き返せなくなる気がしたからだ。


閉めきられたカーテン、無反応な扉。


あきらかにおかしい。


壁1枚隔てた向こう側にあるのは、深い闇……。


予感が当たってしまえば、里美を待ち受けているのは底なしの絶望でしかない。


――由香の身に何かよからぬことが起きている?


里美の呼吸は少しずつ荒くなっていく。


もう一度チャイムを鳴らすか、このまま帰るか……。


今ならまだ間に合う。


引き返せば、この呪縛から逃げられるかもしれない。


見たくない。


これ以上の惨劇を……。


「由香を見捨てるの?」


里美は大きく首を振り、もう一度チャイムに指をかけた。


心臓が激しく騒ぐ。


その振動が指先に伝わり、力も入れていないのにボタンが沈む。


音が鳴る寸前、扉の向こう側から、かすかな物音が聞こえた。


音は玄関の方へと近づいてくる。


金属の擦れる音が聞こえ、ゆっくりと扉が開いた。


扉の隙間から覗かせた顔は、確かに由香だった。


だが、様子がおかしい。


髪の毛をゴムで1つに束ねているのだが、そのほとんどがバラバラにほどけて、由香の頬に張り付いている。


目は虚ろで覇気がない。


目の下はくぼみ、頬もこけているようだ。


「どうしたの?」


由香に半歩近づくと、鼻を突く臭いが里美の鼻腔を襲った。


グレーのスエット姿で現れた由香の前髪はやけに艶っぽい。


由香は里美の問いかけには答えず、そのまま背中を向け階段を上っていく。


「入るよ」


里美は慌てて由香の後を追った。

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