第70話

里美は一気に力が抜け、軽いめまいを起こした。


冷静になると、この惨状はとても耐えられるようなものではなかった。


血液に浮かぶ携帯を拾い上げ、肉片をどかした自分が信じられなかった。


職員にもたれかかるようにして、その場から離れる。


靴に赤い塊が絡みついてきた。


所々に薄黄色の斑点ができて、大きさもまばらだ。


大きめの肉片は重さがある分、広範囲に渡って飛び散っている。


車体と壁を汚しているのは、ミンチ状になった細かな肉片だ。


足を1歩動かすたびに、ヒタヒタと血液が鳴った。


水溜りとは違う、足裏に粘りつくような感覚……。


人間の体の中には、こんなにもたくさんの血液が流れているのかと驚かされるほど、辺りは血で満ちていた。


左足が、やわらかいものを踏んだ。


空気の抜けた水風船を思わせる軽い弾力と柔和……。


そのまま踏みしめると、ぬるりと靴裏が滑った。


土踏まずの脇から、やわらかいモノが押し出た。


何を踏んだのか、容易に想像できる。


あまりの恐怖に声も出せなかった。


悲鳴の上げ方がわからなくなっていた。


いや、悲鳴そのものよりも、何もかもがわからなくなっていた。


叫べばいいのか、泣けばいいのか、発狂すればいいのか……。


足を前後に動かすことすらままならない。


頭の上に恐怖という名の雷が落ちてきて、体中がしびれた。


これまでに経験したことのない戦慄が里美を襲う。


心拍数が上がり、呼吸が荒くなる。


里美は下を見ないように視線を上向きにしたまま進んだ。


さっきまで、自分と同じように息をし、この場に立っていた女は、死体にすらなれなかったのだ。


数分前まで生きていた女は、今は単なるぶつ切りにされた肉でしかない。


この残酷な現状を理解した時、里美の目に自然と涙が浮かんできた。


もう少し早く異変に気がついていたら、彼女は助かったかもしれない。


自責の念にかられ、里美は嗚咽した。

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