act 5
午前9時。 吉本晋也は、今日のカンファレンスの準備に追われていた。今回の症例は、診断に苦慮している珍しい軟部腫瘍のケースだ。
「吉本先生、カンファレンスの資料ができました」 岡野が一束の書類を手渡してきた。
「ありがとう」吉本は資料に目を通しながら言った。「今日の症例は難しいぞ。しっかり勉強になると思うから、よく見ておくように」
岡野は緊張した面持ちで頷いた。
午前10時、カンファレンスルーム。 整形外科、腫瘍内科、放射線科、そして病理診断科のスタッフが集まっていた。
司会の整形外科医が口を開いた。「では、症例検討を始めます。患者は32歳女性。右大腿部の腫瘤を主訴に来院しました」
放射線科医が画像を示しながら説明する。 「MRI画像です。右大腿部深部に7cm大の境界明瞭な腫瘤を認めます。T1強調像で低信号、T2強調像で不均一な高信号を呈しています」
整形外科医が続ける。「触診では弾性硬、可動性良好でした。悪性を疑い、切開生検を行いました」
ここで吉本に注目が集まる。
「病理所見をお願いします、吉本先生」
吉本は立ち上がり、顕微鏡写真をスクリーンに映し出した。
「生検組織の所見です」吉本は慎重に言葉を選びながら説明を始めた。「紡錘形細胞の増殖を認めます。核の大小不同や核分裂像も見られますが、典型的な肉腫とは異なる像です」
カンファレンスルームに緊張が走る。
「免疫染色では、SMA陽性、デスミン陽性、S-100蛋白陰性、CD34陰性でした」
吉本は一呼吸置いて続けた。「これらの所見から、筋線維芽細胞性腫瘍を考えます。しかし、良悪性の鑑別が非常に難しい症例です」
腫瘍内科医が質問する。「筋線維芽細胞性腫瘍ですか...。良性と悪性では治療方針が大きく変わりますが、鑑別の決め手は何でしょうか?」
吉本は慎重に答えた。「現時点では確定的なことは言えません。しかし、腫瘍の大きさ、MRI所見、そして組織学的に核分裂像が見られることから、少なくとも中間悪性腫瘍、つまり再発のリスクがある腫瘍として扱うべきだと考えます」
整形外科医が発言する。「となると、広範切除が必要になりますね」
吉本は頷いた。「はい。ただし、術中迅速診断で断端の評価を慎重に行う必要があります」
議論は白熱し、各科の専門医が意見を出し合う。吉本も時折発言し、病理学的見地から重要な指摘を行う。
1時間半に及ぶ討論の末、最終的な方針が決定した。
「では、広範切除を行い、術中迅速診断で断端評価を行うこととします。吉本先生、術中の迅速診断と、その後の詳細な病理診断をお願いします」
吉本は真剣な表情で応じた。「承知しました。術中迅速では、特に断端の評価に注力します。また、切除標本の詳細な検討で、より確定的な診断を目指します」
その後、吉本は自分のオフィースに戻り、今回の症例についてさらに文献を調べ始めた。珍しい症例だけに、最新の研究結果も確認する必要がある。
夕方、吉本は病院を後にした。帰宅途中、彼の頭の中ではカンファレンスでの議論が繰り返し再生されていた。同時に、この症例をどのように芸術作品に昇華させるかというアイデアも浮かんでいた。
自宅のアトリエに入ると、吉本は即座にキャンバスに向かった。筆が走る。紡錘形の細胞が織りなす模様が、徐々に大腿部の形を形作っていく。そこに不確実性を表す霞がかかり、診断の難しさを表現している。
「医療と芸術、どちらも真実の探求なんだ...」
吉本は呟きながら、夜遅くまで制作を続けた。病理医としての日々の経験が、彼の芸術作品に独特の深みと説得力を与えている。
しかし、ふと手を止めた吉本の表情に、一瞬の翳りが浮かんだ。 「これで本当にいいのだろうか...」
その思いを振り払うように、吉本は再び筆を走らせ始めた。医療と芸術の狭間で揺れ動く彼の心を、誰も知る者はいなかった。
*
その夜、吉本晋也の自宅。
吉本は書斎の窓際に立ち、夜景を見つめながら携帯電話を手に取った。しばらく躊躇った後、深呼吸をして番号を押す。
数回の呼び出し音の後、電話が繋がった。
「もしもし、中村です」
「中村か。吉本だ」
一瞬の沈黙。
「...吉本先生」中村の声には驚きと緊張が混ざっていた。「まさか、あなたから電話があるとは」
吉本は低い声で言った。「岩田から聞いたよ。学会で会ったそうだな」
「ああ、はい。偶然...」
「中村」吉本は言葉を区切って言った。「君は私たちの...過去のことを、どこまで話した?」
中村の声が震えた。「何も...何も話していません。約束は守っています」
「そうか」吉本の声は冷たかった。「それは良かった。あの件は、永遠に誰にも知られてはならないからな」
「分かっています。私だって...」
吉本は中村の言葉を遮った。「念のために言っておく。あの件が明るみに出れば、君の立場も危うくなる。忘れていないだろうな?」
「...はい」中村の声は小さくなった。
「良い医師になったそうじゃないか」吉本の声のトーンが少し柔らかくなる。「それを台無しにしたくはないだろう」
「ええ、もちろん」
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