act 4


翌日の午前10時、病理診断科の実習室。

吉本晋也は、5名の研修医を前に立っていた。今日は、彼が担当する病理診断実習の日だ。実習室には複数の顕微鏡が並び、それぞれの横にはデジタルスクリーンが設置されている。

「皆さん、おはようございます」吉本は穏やかな口調で切り出した。「今日は、病理診断の基本と、その臨床における重要性について学んでいきましょう」

研修医たちは真剣な表情で頷いた。その中に、先日のカンファレンスで吉本の診断を目の当たりにした若手医師、小林の姿もあった。

「まず、病理診断とは何か。これは単に組織を観察するだけではありません」吉本は静かに、しかし力強く語り始めた。「それは、患者さんの体内で起こっている現象を、細胞レベル、分子レベルで理解し、解釈する作業なのです」

吉本はスクリーンに、様々な組織像を映し出した。

「例えば、この肺癌の組織像を見てください。一見すると、ただの異型細胞の集まりに見えるかもしれません。しかし、ここには患者さんの人生が刻まれているのです」

研修医たちは、息を呑むように画面を見つめていた。

「細胞の形態、配列パターン、周囲の組織との関係。これらすべてが、腫瘍の性質、進行度、そして患者さんの予後を物語っています」

吉本は次々と画像を切り替えながら、説明を続けた。

「そして、現代の病理診断は形態学的観察だけにとどまりません。免疫組織化学染色、遺伝子解析、そして最新のデジタル病理学。これらを統合的に解釈することで、より精密な診断が可能になるのです」

小林が手を挙げた。「先生、昨日のカンファレンスでの症例のように、従来の分類に当てはまらないケースもありますよね。そういう場合、どのようにアプローチすればいいのでしょうか?」

吉本は微笑んだ。「良い質問です、小林君。確かに、医学の教科書に書かれていないケースに遭遇することは少なくありません。そういう時こそ、病理医の真価が問われるのです」

彼は昨日の症例のスライドを表示した。

「このような難解な症例に直面したとき、重要なのは固定観念にとらわれないことです。すべての所見を丁寧に観察し、それらを論理的に組み立てていく。そして、時には大胆な仮説を立てる勇気も必要です」

研修医たちは、昨日の症例について聞いていたらしく、興味深そうに耳を傾けていた。

「しかし」吉本は真剣な表情で続けた。「大切なのは、自分の診断に対して常に批判的であること。仮説は仮説であり、それを検証する姿勢を忘れてはいけません」

吉本は各研修医の顔を見渡した。

「皆さんは、臨床の最前線に立つ医師になります。その時、病理診断は皆さんの強力な武器となるでしょう。しかし同時に、その武器の使い方を誤れば、患者さんを危険に晒すことにもなりかねません」

研修医たちの表情が引き締まる。

「だからこそ、病理診断の基本をしっかりと身につけ、常に学び続ける姿勢が重要なのです」

吉本は実際の顕微鏡の前に立った。

「さて、ここからは実際に組織を観察してみましょう。まずは、正常組織の観察から始めます。正常を知らなければ、異常は分かりません」

研修医たちは、各自の顕微鏡の前に座った。吉本は一人一人の元を回りながら、丁寧に指導を行っていく。

「ここの細胞配列に注目してください。正常な腺組織では、このような規則正しい配列が見られます」

「核と細胞質の比率。これが崩れると、悪性を疑う重要な手がかりになります」

研修医たちは、真剣な表情で吉本の説明に聞き入っていた。時折、鋭い質問を投げかける者もいる。吉本はそれらの質問に丁寧に答えながら、さらに深い考察を促していく。

「良い観察眼です。その気づきは、将来重要な発見につながるかもしれません」

実習が進むにつれ、研修医たちの目つきが変わっていくのが分かった。最初は戸惑いの色が濃かった彼らの目に、次第に理解の光が宿り始める。

「病理診断は、まさに探偵のような仕事です」吉本は熱を込めて語った。「与えられた手がかり(組織像)から、事件の真相(疾患の本質)を解き明かしていく。その過程には、論理的思考と創造的洞察の両方が必要不可欠なのです」

実習の終わり近く、吉本は研修医たちに問いかけた。

「さて、皆さんにとって、この実習はどうでしたか?病理診断に対する印象は変わりましたか?」

小林が率先して答えた。「はい。正直、最初は地味な作業だと思っていました。でも、先生の指導を受けて、病理診断の奥深さと重要性を実感しました」

他の研修医たちも同意するように頷いた。

吉本は満足げに微笑んだ。「嬉しい言葉です。病理診断は、確かに地味で、時に孤独な作業かもしれません。しかし、それは医療の根幹を支える、極めて創造的で知的な挑戦なのです」

実習室を後にする研修医たちの表情は、来た時とは明らかに違っていた。彼らの目には、新たな発見への興奮と、医学への深い敬意が宿っていた。

吉本は彼らを見送りながら、自身の研修医時代を思い出していた。あの頃の純粋な探究心。そして、それが今では彼を別の探究へと導いてしまった皮肉。

彼は深いため息をつきながら、次の予定のために研究室に向かった。しかし、その足取りには、いつもの自信に満ちた様子が見られた。研修医たちとの時間は、彼自身にとっても、医学への初心を思い出させる貴重な機会だったのだ。



病理診断科の廊下。吉本晋也が診断報告書を手に歩いていると、後ろから岩田真一の声がした。


「吉本先生、少々お時間よろしいでしょうか」


吉本は立ち止まり、振り返った。「ああ、岩田君。どうした?」


「先日の学会のことでご報告があります」岩田は声をかけた。


「学会?なにがあった。」


「はい。実は、先生の以前の同僚だという中村先生とお会いしまして」


吉本の表情が一瞬動いたが、すぐに平静を取り戻す。「中村か...懐かしい名前だな」


「はい。中村先生と同じ大学出身で、久しぶりに再会したんです」


吉本は穏やかな口調で尋ねた。「そうか。中村は元気にしていたか?」


「はい、お元気そうでした」岩田は答えた。「先生のお名前も出まして...」


「ほう」吉本は軽く頷いた。「昔話でも出たのか?」


「はい、少し...」岩田は言葉を選びながら続けた。「特別なことではないんですが...」


吉本は穏やかに微笑んだ。「そうか。さて、午後の症例検討の時間だ。行こうか」


「はい...」岩田は少し物足りない様子で答えた。


吉本は歩き出しながら、さりげなく話題を変えた。「そういえば、新しいプロジェクトの進捗はどうだ?」


岩田は吉本の背中を見つめながら、何か言葉にできない違和感を覚えていた。吉本の態度は自然に見えたが、どこか微妙に普段と違う印象を受けた。




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