第6章「探求」

 高橋哲也は、研究室の窓から外を見つめていた。秋の深まりとともに、キャンパスの木々は色とりどりに染まり始めていた。しかし、その美しい光景も、彼の心を占める重い課題を払拭するには至らなかった。


「死」


 その一語が、高橋の心を支配していた。久遠有希との邂逅以来、彼の人生は大きく変わった。そして今、彼女が「死」の化身であるという事実を知った今、高橋の探求心は燃え上がっていた。


 高橋は深いため息をつき、重い足取りで机に向かった。その木製の机は、まるで知識の重みに耐えかねているかのようにきしむ音を立てた。彼の目の前には、「死」に関する様々な文献が山のように積み上げられていた。その光景は、彼の心の中の混沌を外面化したかのようだった。


 一番上には、ハイデガーの『存在と時間』が開かれたまま置かれていた。高橋は、少し目を細めて、その難解な文章を再度見つめた。「死への存在」という概念が、今の彼の状況と奇妙に重なり合う。その横には、サルトルの『存在と無』が、まるで対をなすかのように並んでいた。


 哲学書の山を少しずらすと、そこには仏教の経典が顔を覗かせていた。『無量寿経』や『倶舎論』など、古代インドから東アジアに伝わった死生観を説く書物が、黄ばんだページをめくる度に、独特の紙の匂いを漂わせていた。


 その隣には、キリスト教神学の書物が積まれていた。アウグスティヌスの『神の国』やトマス・アクィナスの『神学大全』など、西洋の死生観を形作ってきた重厚な著作群が、静かに佇んでいる。


 机の端には、日本の民俗学に関する書籍が並んでいた。柳田國男の『遠野物語』や折口信夫の論文集など、日本人の死生観や冥界観を探る手がかりとなる文献が、どこか懐かしい雰囲気を醸し出していた。


 高橋は、眼鏡を外してその疲れた目をこすった。机上のあちこちには付箋が貼られ、メモが散らばっていた。それらは、彼の必死の探求の跡を如実に物語っていた。


「死とは何か……?」


 彼は小さく呟きながら、再び本の山に目を向けた。そこには、古今東西の叡智が詰まっていた。しかし同時に、それらは「死」という深遠な謎の前では、まだまだ不十分なものにすぎないという事実も突きつけていた。


 高橋は、机の引き出しからノートを取り出した。そこには、彼なりの「死」についての考察が、乱雑な字で綴られていた。東洋と西洋、古代と現代、哲学と宗教……。様々な視点が交錯する中で、彼は「死」の本質に少しずつ迫ろうとしていた。


 しかし、その探求は果てしなく、時に彼を絶望的な気分にさせた。机上の山積みの本を見上げながら、高橋は再び深いため息をついた。


「これで本当に『死』の真髄に迫れるのだろうか……?」


 その問いは、部屋の静寂の中に吸い込まれていった。外では、夕暮れの空が赤く染まり始めていた。それは、まるで「生」から「死」への移行を象徴しているかのようだった。高橋は、その景色をしばし見つめた後、再び机に向かい、ペンを走らせ始めた。


「死とは何か……? なぜ、それが人の姿をして現れるのか……?」


 高橋は呟いた。彼の頭の中では、様々な思考が渦巻いていた。プラトンやハイデガーの死生観、仏教における輪廻転生の概念、そして現代の死生学……。それらが、有希という存在と絡み合い、複雑な様相を呈していた。


 高橋の目は、机上に広げられた古代ギリシャの哲学書に釘付けになっていた。プラトンの『パイドン』に記された言葉が、彼の心を揺さぶる。


「死とは、魂が肉体から解放されること……」


 高橋は、その一節を何度も反芻した。有希の存在は、まさにこの概念の具現化ではないのか? 彼女は、魂と肉体の分離を体現する存在なのかもしれない。


 しかし、すぐさま彼の思考は、ハイデガーの『存在と時間』へと飛んだ。


「人間は、死への存在である……」


 この言葉が、高橋の胸に重くのしかかる。有希との出会いは、彼に自身の有限性を強烈に意識させた。しかし同時に、その有限性こそが人生に意味を与えるのではないかという思いも芽生えていた。


 高橋は、ため息をつきながらペンを置いた。視線を窓の外に向けると、そこには紅葉した木々が風に揺れる姿が見えた。その光景に、彼は仏教の輪廻転生の概念を重ね合わせる。


「生と死は、永遠に繰り返されるサイクルなのか……?」


 彼の脳裏に、有希の神秘的な微笑みが浮かんだ。彼女は、その永遠のサイクルの中で、どのような役割を担っているのだろうか? 高橋は、自分の考えをノートに書き留めた。


 そして、彼の視線は現代の死生学の教科書へと移った。そこには、人間の死に対する態度や、終末期医療の問題など、現代社会における「死」の位置づけが詳細に記されていた。


「現代人は、死をタブー視する傾向がある……」


 高橋は、その一文に長い間見入っていた。有希の存在は、そんな現代社会に一石を投じるものだった。彼女は、死を身近なものとして、むしろ生の一部として捉えることを可能にする。


 しかし、同時に高橋の心には不安も渦巻いていた。有希との関わりが深まるにつれ、自身の死への意識も強まっていく。それは恐怖か、それとも解放か?


「死とは何か……」


 高橋は、再びペンを握りしめた。彼の頭の中では、古代から現代までの哲学的思考が、有希という存在を軸に渦を巻いていた。それは、まるで生と死の境界線上で踊る思考のワルツのようだった。


 彼は、自分の内なる声に耳を傾けながら、ゆっくりとノートに言葉を紡いでいった。それは、人類が古来より抱き続けてきた「死」への問いと、有希という特異な存在によってもたらされた新たな視点が交錯する、深遠な考察となっていった。


 突然、研究室のドアがノックされた。


「どうぞ」


 高橋が声をかけると、ドアが開き、鈴木誠司が顔を覗かせた。


「やあ、高橋。また徹夜か?」


 鈴木は、親友特有の穏やかな笑みを浮かべながら入ってきた。その表情には、心配の色が滲んでいた。


「ああ、少し研究に没頭していてね」


 高橋は、やや疲れた表情で答えた。


「君、最近様子がおかしいぞ。何かあったのか?」


 鈴木の鋭い洞察力が、高橋の心の内を探るように問いかけてきた。高橋は一瞬躊躇したが、ため息とともに口を開いた。


「実は……信じられない話なんだが」


 高橋は、有希との出会いから、彼女が「死」の化身であることを知るまでの経緯を、できるだけ冷静に説明した。話し終えると、研究室に重い沈黙が落ちた。


 鈴木は、眉間にしわを寄せながら、しばらく黙っていた。そして、ゆっくりと口を開いた。


「正直、にわかには信じがたい話だ。しかし……」


 鈴木は、高橋の目をじっと見つめた。


「君がそこまで真剣に話すからには、何かがあるんだろう。私にできることがあれば、力になろう」


 高橋は、親友の言葉に心が温かくなるのを感じた。


「ありがとう、誠司。実は、君と一緒に調べたいことがあるんだ」


 二人は、「死」の概念について、様々な角度から調査を始めた。古今東西の文献を渉猟し、時には激しい議論を交わした。その過程で、高橋は自分の中に芽生えた新たな感情に気づき始めていた。


 それは、「死」への恐れではなく、むしろ畏敬の念に近いものだった。


 調査が一段落した頃、高橋は有希との再会を決意した。彼は、古書店へと足を運んだ。


 店内に入ると、有希の姿があった。彼女は、相変わらず黒い服を纏い、首には例の黒い石のペンダントが光っていた。


「お久しぶりです、高橋先生」


 有希の声には、どこか儚さが感じられた。


「ああ、久しぶりだね、有希さん。……いや、『死』とでも呼んだ方がいいのかな?」


 高橋の言葉に、有希の瞳が揺れた。


「どうお呼びいただいてもかまいません。私は、私ですから」


「君の正体について、もっと詳しく知りたい」


 有希は、静かにうなずいた。


「では、少し歩きませんか?」


 二人は、夕暮れの街を歩き始めた。街路樹の葉が、秋風に揺れている。


「先生は、『死』をどのようにお考えですか?」


 有希の問いかけに、高橋は深く考え込んだ。


「以前は、恐れるべきもの、避けるべきものだと思っていた。でも今は……違う気がする」


「どのように?」


「『死』は、『生』と表裏一体のものだと思うようになった。『死』があるからこそ、『生』に意味がある。そして……」


 高橋は、有希の目をまっすぐ見つめた。


「君との出会いによって、『死』が単なる終わりではなく、何か新しいものへの扉なのではないかと考えるようになった」


 有希の目に、驚きの色が浮かんだ。


「先生……」


「有希さん、君は一体どんな存在なんだ? なぜ人の姿をしているんだ?」


 有希はしばらく黙っていた。夕暮れの柔らかな光が二人を包み、周囲の喧騒が遠のいていくようだった。高橋は、有希の横顔を見つめながら、心の中で言葉を探っていた。


「有希さん」


 高橋の声に、有希はゆっくりと顔を向けた。その瞳には、星空のような深みがあった。


「はい?」


「君自身はどうなんだい? 今、生きているのかい? それとも死んでいるのかい?」


 高橋の問いかけに、有希の表情が一瞬凍りついたように見えた。彼女は、ペンダントに手を伸ばし、それを軽く握りしめた。そして、深い息を吐いてから口を開いた。


「私は、『死』そのものです。でも、同時に『生』への憧れも持っています。人の姿をしているのは、おそらくそのためでしょう」


 有希の言葉には、どこか切なさが滲んでいた。

 高橋は、彼女の言葉の重みを感じながら、さらに問いかけた。


「『死』そのものであり、かつ『生』への憧れを持つ……。それは、どういう状態なんだい?」


 有希は、遠くを見つめながらゆっくりと答えた。


「私は、生きてもいないし、死んでもいません。永遠の狭間にいるのです。生命の終わりを見届け、魂を次の世界へと導く。それが私の役目です。でも……」


 彼女は一瞬言葉を切り、高橋の目を見つめた。


「人間たちを見ているうちに、その生命力に魅了されてしまったのです。喜び、悲しみ、怒り、愛……。そういった感情を、この身で感じてみたいと思うようになりました」


 高橋は、有希の言葉に深く考え込んだ。彼女の存在が、生と死の境界そのものであることを改めて実感した。


「だから、人の姿を借りているんだね」


「はい。でも、それは本当の『生』ではありません。ただの模倣に過ぎないのです」


 有希の声には、かすかな後悔の色が混じっているように聞こえた。高橋は、思わず彼女の手を握りしめていた。その温もりは、確かに人間のものだった。


「でも、君は確かにここにいる。それだけでも、意味があるんじゃないか?」


 高橋の言葉に、有希は驚いたように目を見開いた。


「先生……」


「生きているか死んでいるか、それはそれほど重要なことかな? 大切なのは、今この瞬間を、どう感じ、どう行動するかだと思う」


 高橋の言葉に、有希の目に涙が浮かんだ。それは、人間の感情を真に理解し始めた証だったのかもしれない。


 二人は長い間黙っていたが、その沈黙は重くはなかった。むしろ、互いの存在を深く感じ合うような、温かいものだった。


「そして君は人間の感情を……理解できるようになったのかい?」


「完全には……いいえ」


 有希は、少し寂しげに微笑んだ。


「でも、先生との出会いによって、少しずつ分かってきた気がします。人間の感情の複雑さ、深さ……そして、美しさを」


 二人の会話は、夜が更けるまで続いた。生と死、愛、そして人間の存在意義について。時に激しく議論し、時に静かに考え込んだ。


 別れ際、有希が高橋に告げた。


「先生、あなたはまだ生きている。でも、いつかは必ず私のもとに来る。その時まで、精一杯生きてください」



 高橋は、複雑な思いを胸に研究室に戻った。そこで、彼は衝撃的な光景を目にする。


 書斎の隅に置かれていた古い砂時計が、ほぼ空になっていたのだ。


「これは……」


 高橋は、その意味を考えようとした瞬間、突然胸に鋭い痛みを感じた。


「ぐっ……!」


 痛みはすぐに収まったが、高橋の心に不吉な予感が走った。


 窓の外では、夜空に満月が輝いていた。その光は、高橋の未来を暗示するかのように、冷たく、そして美しく輝いていた。

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