第5章「啓示」
秋の深まりとともに、高橋哲也の心にも何か濃密なものが沈殿していくようだった。彼は研究室の窓から、紅葉し始めた銀杏並木を眺めながら、ため息をついた。
「有希さん……一体、君は何者なんだ?」
彼の脳裏に、久遠有希の神秘的な微笑みが浮かぶ。彼女との出会い以来、高橋の日常は少しずつ、しかし確実に変化していった。それは、長年凍りついていた彼の心が、徐々に溶け始めているかのようだった。
高橋は机の上に広げられた古書に目を落とした。有希に勧められて購入したその本は、彼の人生観を根底から揺るがすものだった。しかし、不思議なことに著者名が記されていない。
「この本の著者……なんとしても知りたい……」
高橋は立ち上がり、書棚から関連書籍を次々と取り出した。しかし、どれほど調べても、この謎の著者に関する情報は見つからない。まるで、この本が突如として現れたかのようだった。
頭をかかえて椅子に座り込んだ高橋の耳に、廊下の物音が聞こえてきた。顔を上げると、そこには鈴木誠司の姿があった。
「どうした、高橋。また徹夜か?」
鈴木は穏やかな笑顔を浮かべながら、研究室に入ってきた。
「ああ、誠司か。実は……」
高橋は躊躇いがちに、有希のことと本の謎について語り始めた。鈴木は黙って聞いていたが、時折眉をひそめる。
「哲也、その女性のことが気になるのは分かる。でも、そこまで執着するのはどうかと思うぞ。それは本当の『愛』なのか、高橋?」
鈴木の言葉に、高橋は少し反発を覚えた。
「執着じゃない。ただ、彼女には何か特別なものがある。それに、この本の内容といい……すべてが繋がっているような気がするんだ」
鈴木は深く息を吐いた。
「分かった。だが、くれぐれも無理はするなよ。それと……」
鈴木は一瞬言葉を切った。
「もし何かあったら、いつでも相談してくれ」
高橋は感謝の気持ちを込めて頷いた。鈴木が去った後、彼は再び窓の外を見た。銀杏の葉が風に舞い、黄金色の雨のように降り注いでいる。
「そうだ、あの古書店に行ってもう一度有希さんと会おう……!」
高橋は急いで外に出た。街を歩きながら、彼の心は奇妙な高揚感に包まれていた。それは、何か重大な発見の予感だった。
古書店に着くと、高橋は少し躊躇いながらドアを開けた。店内は相変わらず薄暗く、古い本の匂いが漂っている。
「いらっしゃいませ」
奥から聞こえてきた声に、高橋は心臓が高鳴るのを感じた。有希が姿を現す。彼女は相変わらず黒い服を着て、例の黒い石のペンダントを首にかけていた。
「ああ、高橋先生。またいらしたのですね」
有希の声には、どこか人間離れした響きがあった。
「ええ、あの本のことでもう一度……」
高橋が言葉を続けようとしたとき、不意に足を踏み外した。バランスを崩した彼は、反射的に有希に手を伸ばす。その瞬間、彼の指が有希の黒い石のペンダントに触れた。
突如として、高橋の意識が別の場所に飛んだ。
そこは、無限に広がる暗闇のような空間だった。しかし、その闇は生命に満ちているようにも感じられた。高橋の目の前で、無数の光の粒子が生まれては消えていく。それは、人々の生と死を表しているようだった。
そして、その中心に立つ一人の存在。それは有希の姿をしていたが、同時に「死」そのものでもあった。彼女は慈愛に満ちた眼差しで、生まれ来る魂と死に行く魂を見守っている。
幻視が終わると、高橋は激しい動悸を感じながら我に返った。有希が心配そうに彼を見つめている。
「大丈夫ですか?」
高橋は震える声で尋ねた。
高橋は震える声で尋ねた。
「君は……『死』なのか?」
有希の瞳が、一瞬だけ深い悲しみを湛えた。彼女は長い沈黙の後、ゆっくりと窓際に歩み寄った。外では、夕暮れの空が赤く染まり始めていた。
「わかっていました。人間は、常に真実を求める……」
有希の声は、まるで遠い過去から響いてくるかのようだった。
「でも、時として真実は、求める者の心を引き裂くこともある」
彼女は振り返り、高橋をじっと見つめた。その瞳には、数千年の歴史が凝縮されているかのようだった。
「私の正体を知って、あなたは何を感じますか? 恐怖? 憎しみ? それとも……」
有希は言葉を切り、ゆっくりとペンダントに手を伸ばした。
「このペンダントは、私の本質を隠す鍵。でも、同時に私の存在そのものでもあるのです」
彼女がペンダントを握りしめると、部屋の空気が一瞬凍りついたように感じられた。
「高橋先生、あなたは死を恐れますか?」
高橋は言葉に詰まった。有希は彼の反応を待つことなく、続けた。
「人は皆、私から逃げようとする。でも、私は決して誰かを追いかけはしない。ただ、その時が来るのを静かに待つだけ……」
有希は深く息を吐き、決意を固めたかのように高橋を見つめた。
「先生の推測は正しいです」
彼女の声は、ほとんど囁くように小さくなっていた。
「私は『死』の化身です」
その瞬間、部屋の灯りが一瞬明滅し、外では鴉の鳴き声が聞こえた。高橋は、自分の心臓の鼓動が耳に響くのを感じた。
有希の告白は、高橋の世界観を根底から覆すものだった。しかし、同時に全てのピースが繋がった感覚もあった。有希の神秘的な雰囲気、深い洞察力、そして彼女が人間の感情を完全には理解できないこと。すべてが説明できた。
高橋は、複雑な感情に襲われながらも、次の質問を口にした。
「なぜ、僕に接近したんだ?」
高橋の問いに、有希は静かに答えた。
「あなたの魂に惹かれたのです。哲学者としてのあなたの洞察力、そして……」
有希は言葉を切った。
「人間の本質を理解したかったのです」
高橋は、複雑な感情に襲われた。恐れ、驚き、そして奇妙な安堵感。彼は、自分が「死」そのものに惹かれていたことを悟った。
「でも先生、大丈夫です。まだ、時間があります」
有希はそう言って、高橋の手を軽く握った。その温もりは、まるで生きているかのようだった。
「これからどうすればいい?」
高橋の問いかけに、有希は微笑んだ。
「それはあなた自身が見つけるべきです。私はただ、あなたの傍にいてあなたを見つめているだけ……」
高橋は深く息を吐いた。彼の人生は、今この瞬間から大きく変わろうとしていた。「死」との邂逅。それは恐ろしくもあり、同時に新たな扉が開かれたようでもあった。
古書店を出ると、夕暮れの街が彼を包み込んだ。高橋は空を見上げた。オレンジ色に染まった空に、一羽の鳥が飛んでいく。
「生きることの意味……それを見つけ出すのが、残された時間での僕の使命なのかもしれない……」
高橋はそうつぶやきながら、家路についた。彼の心の中で、これまでの人生観が大きく揺らいでいた。そして、新たな探求への情熱が静かに、しかし確実に燃え上がっていくのを感じていた。
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