第4章「葛藤」
高橋哲也は、研究室の窓から見える夕暮れの空を眺めながら、深いため息をついた。秋の風が窓を揺らし、彼の心にも同じように波紋を広げていく。
「あれから、もう一カ月か……」
彼の脳裏に、久遠有希との出会いが鮮明によみがえる。あの神秘的な美しさ、深い洞察力、そして何より、彼女が放つ不思議な魅力。高橋は自分でも気づかぬうちに、有希のことを考えている時間が増えていた。
しかし、同時に心の奥底では、かすかな不安が渦巻いていた。
「僕は……彼女の何を知っているんだ?」
高橋は机の上に置かれた古い写真を手に取る。そこには、若かりし頃の彼と、笑顔の女性が写っていた。彼の最愛の人……今はもうこの世にいない恋人だ。
「智子……」
その名を呟いた瞬間、胸に鋭い痛みが走る。20年以上経った今でも、その喪失感は彼の心に深く刻まれたままだった。
智子との思い出が次々と蘇る。彼女の笑顔、二人で過ごした時間、そして……あの悲惨な事故の知らせ。高橋は目を強く閉じ、頭を振った。
「もう過ぎ去ったことだ。前を向かなければ」
しかし、その言葉とは裏腹に、彼の心は過去と現在の間で揺れ動いていた。有希への想いと、智子への忘れられない愛。そして、自分自身への疑問。
「本当に、僕はまた誰かを愛していいのだろうか?」
高橋は立ち上がり、部屋を歩き回った。窓の外では、街灯が一つずつ灯り始めている。その光が、彼の混沌とした心を照らし出すかのようだった。
ふと、机の上に置かれた携帯電話が震える。画面を見ると、親友の鈴木誠司からのメッセージだった。
「久しぶりに呑まないか? 話したいことがある」
高橋は少し迷った後、返信を送った。
「ああ、そうだな。僕も話したいことがある」
30分後、二人は大学近くの静かな居酒屋で向かい合っていた。鈴木の丸メガネの奥の目は、いつもの温厚な表情だが、何か心配そうな影が見える。
「何だか最近、元気がないようだが……大丈夫か?」
鈴木の言葉に、高橋は苦笑いを浮かべた。
「僕はそんなに分かりやすいのか?」
「君のことは、小さい頃から知っているからな。何かあったんだろう?」
高橋は一瞬躊躇したが、ついに重い口を開いた。
「実は……ある女性のことで悩んでいるんだ」
鈴木の眉が、わずかに上がる。
「へえ、珍しいな。君が女性のことで悩むなんて」
高橋は、有希との出会いから、彼女との不思議な会話、そして自分の中に芽生えた感情について語り始めた。話せば話すほど、彼の中にあった葛藤が言葉となって溢れ出す。
「でも、同時に怖いんだ。また誰かを失うことが……」
高橋の声が震える。鈴木は静かに聞いていたが、ここで口を開いた。
「哲也、君はまだ智子のことを引きずっているんだな」
その言葉に、高橋は息を呑んだ。
「そんなことは……」
「いや、違う」
鈴木は優しくも強い口調で遮った。
「君は、智子を失った痛みから、自分の心を閉ざしてきた。でも、人間は愛することで生きるんだ。それを避けては、本当の意味で生きているとは言えない」
高橋は言葉を失った。鈴木の言葉が、彼の心の奥深くまで響いていく。
「でも……」
「分かっている。怖いんだろう? でも、考えてみてくれ。智子は、君がこんな風に生きることを望んだだろうか?」
その言葉に、高橋の目に涙が浮かんだ。
「いや……望まないだろうな」
「そうだ。愛するということは、確かに失う可能性も含んでいる。でも、それを恐れて生きるのは、本当の意味で生きているとは言えないんだ」
鈴木の言葉に、高橋は深くうなずいた。彼の心の中で、何かが少しずつ解けていくのを感じる。
「ありがとう、誠司。君の言う通りだ」
二人は静かに酒を酌み交わした。その時、鈴木が思い出したように言った。
「そういえば、この前一緒に見たあの奇妙な光の現象……あれは一体なんだったんだろう?」
高橋は顔を上げた。
「ああ、あの光化……。まるで街全体が虹色に輝いているような……」
「そう、まさにそれだ。あれは本当に一体何なんだったんだろう……何かを暗示しているのか、それとも……
高橋は考え込んだ。あの光の現象、有希との出会い、そして自分の中の変化。すべてが何かに繋がっているような気がしてならない。
「分からないが……何か重要な意味があるような気がするんだ」
鈴木は静かにうなずいた。
二人が店を出たとき、夜空には満月が輝いていた。その光は、まるで二人の会話を見守っていたかのようだった。
家に戻った高橋は、書斎に向かった。そこには、彼が大切にしている古い砂時計が置かれている。
「おや?」
高橋は驚いて目を凝らした。砂時計の砂が、以前よりも早く落ちているように見える。彼は首を傾げたが、すぐに気を取り直し、デスクに向かった。
そこで、高橋は日記を取り出し、ペンを走らせ始めた。
「今日、私は長年封印していた自分の心と向き合った。失うことを恐れて、愛することを避けてきた自分。でも、それは本当の意味で生きることではなかったのかもしれない。有希との出会い、誠司との会話。すべてが、私に何かを伝えようとしているような気がする。これからどうすべきか、まだ分からない。でも、一つだけ確かなことがある。私は、もう逃げない。たとえ、それが苦しみを伴うとしても……」
ペンを置いた高橋は、深く息を吐いた。書斎の窓から、夜空に輝く満月が見える。その光は、彼の決意を後押しするかのように、静かに輝いていた。
彼は静かに目を閉じた。明日への期待と不安が入り混じる中、高橋の心は久しぶりに穏やかになっていた。
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