第3章「誘惑」
高橋哲也は、大学の講堂で熱心に講義をしていた。今日のテーマは「死生学」。彼の声は、静まり返った空間に響き渡る。
「人は、死を意識することで、初めて真の意味で生きることができるのではないでしょうか」
そう語る高橋の目に、ふと聴講者の一人が飛び込んできた。黒い服を着た女性……久遠有希だ。彼女の姿を認めた瞬間、高橋の心臓が微かに高鳴った。
講義が終わり、学生たちが三々五々退出していく中、有希が高橋に近づいてきた。
「素晴らしい講義でした、先生」
有希の声には、どこか人間離れした響きがあった。
「ありがとう。でも、貴女にとっては物足りない内容だったんじゃないかな?」
高橋は少し皮肉を込めて返した。有希の洞察力の深さを知っている彼には、自分の講義が彼女にとって何か新しい発見をもたらしたとは思えなかったのだ。
「いいえ、とても興味深かったです。特に、死の瞬間の意識について……」
有希の言葉に、高橋は思わず身を乗り出した。
「死の瞬間の意識? 君は何か特別な経験でもあるのかい?」
高橋の問いに、有希は微笑むだけだった。その笑みには、何か言葉では言い表せない深みがあった。
「先生こそ、死についてどのようなお考えですか?」
有希の問いかけに、高橋は一瞬言葉に詰まった。彼の脳裏に、若いころに失った恋人の姿が浮かぶ。
「死は……避けられないものだ。だからこそ、生きている間に意味を見出さなければならない」
高橋の言葉に、有希は静かに頷いた。
「では、その『意味』を一緒に探ってみませんか?」
有希の誘いに、高橋は思わず「ああ」と答えていた。彼の理性は警告を発していたが、心の奥底では、この謎めいた女性ともっと話をしたいという欲求が燃え上がっていた。
二人は大学の近くの小さなカフェに入った。窓際の席に座り、コーヒーを注文する。夕暮れの柔らかな光が、テーブルに置かれた花瓶を照らしていた。
「先生は、死後の世界を信じますか?」
有希の唐突な質問に、高橋は少し戸惑った。
「科学的には証明されていないからね。でも、完全に否定することもできない」
高橋は慎重に言葉を選んだ。有希の目が、じっと彼を見つめている。
「でも、先生の心の奥底では信じているのでは?」
有希の言葉に、高橋は息を呑んだ。彼女の洞察力の鋭さに、また驚かされる。
「なぜ、そう思う?」
「先生の目に……希望が見えるから」
有希の言葉に、高橋は言葉を失った。確かに、彼の心の奥底では、失った人々との再会を密かに願っていた。それを、この謎の女性に見抜かれてしまったのだ。
会話が深まるにつれ、高橋は有希に引き込まれていくのを感じていた。彼女の言葉の一つ一つが、彼の心に直接響いてくる。それは単なる知的な魅力ではない。もっと本質的な、魂を揺さぶるような何かだった。
ふと、有希の首元に光るペンダントに目が留まった。黒い石で作られたそれは、不思議な輝きを放っている。
「そのペンダント、素敵だね」
高橋が言うと、有希は微笑んだ。
「ありがとうございます。他人から見ればつまらない装飾品でしょうけど、私にとっては大切なものなんです」
その瞬間、ペンダントが一瞬、不思議な光を放ったように見えた。高橋は目を疑った。
「今、光った?」
「え? 何がですか?」
有希は首を傾げた。高橋は一瞬、自分の目を疑ったが、すぐに気を取り直した。
「いや、気のせいだったみたいだ」
会話は続き、二人は哲学、芸術、そして人生について語り合った。時間が経つのを忘れるほど、話は尽きなかった。
カフェを出る頃には、すっかり日が暮れていた。街灯の明かりが、二人を優しく照らしている。
「今日は楽しかった。ありがとう」
高橋の言葉に、有希は微笑んだ。
「私も、です」
別れ際、有希の手が軽く高橋の腕に触れた。その瞬間、高橋の体に電流が走ったような感覚があった。
「また……会えますか?」
高橋の問いかけに、有希はただ微笑むだけだった。その笑顔には、何か悲しげな影が見えたような気がした。
家に帰り、ベッドに横たわった高橋の頭には、有希との会話が繰り返し蘇ってきた。彼女の言葉、仕草、そして不思議な雰囲気。すべてが彼の心を掻き立てる。
「僕は……彼女に惹かれているのか?」
その思いに、高橋は戸惑いを覚えた。長年、恋愛感情を封印してきた彼にとって、この感情は新鮮であると同時に、恐ろしくもあった。
目を閉じると、有希の姿が浮かんできた。そして、彼はまた不思議な夢を見始めた。夢の中で、有希は黒い翼を広げ、彼に手を差し伸べている。高橋が彼女の手を取ろうとした瞬間、目が覚めた。
汗びっしょりになって起き上がった高橋は、窓の外を見た。まだ夜明け前の闇が街を覆っている。彼の心の中も、同じように闇に包まれていた。有希という存在が、彼の人生に何をもたらすのか。それは、まだ誰にも分からない。
しかし、高橋の心の奥底では、何か大きな変化が始まっていることを感じていた。それが良いものなのか悪いものなのか、判断することはできない。ただ、彼の人生が大きく変わろうとしていることだけは、確かだった。
朝日が昇り始め、新しい一日が始まろうとしていた。高橋は深い溜息をつきながら、身支度を始めた。今日もまた、人生の謎を解き明かすための一歩を踏み出す日になるのだろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます