第2章「対話」
大学の廊下を急ぐ高橋の足取りは、普段よりも重かった。遅刻した講義の代わりに、急遽オフィスアワーを設けたものの、頭の中は昨夜の本の内容でいっぱいだった。
「おや、珍しいな。高橋が遅刻するなんて」
背後から聞こえた声に、高橋は振り返った。そこには、親友であり同僚の鈴木誠司の姿があった。温厚な笑顔と丸メガネが、いつもの鈴木らしい。
「ああ、鈴木か。昨夜、少し寝過ごしてしまってね」
高橋は苦笑いを浮かべながら答えた。しかし、鈴木の鋭い目は、そんな表面的な言葉に満足しなかった。
「本当にそれだけかい? 何か、ありそうだな」
鈴木の言葉に、高橋は一瞬たじろいだ。この男の洞察力は、いつも彼を驚かせる。
「……実は、昨日興味深い本を手に入れてね。それで、つい夜更かししてしまったんだ」
高橋は観念したように話し始めた。鈴木の眉が、わずかに持ち上がる。
「ほう、どんな本だい?」
その問いかけに、高橋は深く息を吐いた。どこから話せばいいのか、戸惑いを覚える。
「生と死について書かれた本なんだが……これがね、驚くほど深い洞察に満ちているんだ」
高橋の言葉に、鈴木の目が輝きを増した。
「おや? それは面白そうだ。ちょうど私も、最近そういったテーマについて考えていたところなんだ」
二人は無意識のうちに、高橋の研究室へと足を向けていた。扉を開け、中に入ると、高橋はデスクの引き出しから昨夜の本を取り出した。
「これだ」
鈴木は本を手に取り、ページをめくり始めた。その表情が、徐々に真剣なものに変わっていく。
「これは……なかなか興味深いな。著者は誰だい?」
高橋は首を横に振った。
「それが分からないんだ。著者名が記されていないんだよ」
鈴木は眉をひそめた。
「匿名の著作か。珍しいね。でも、この内容は……まるで著者が生と死の境界を直接経験したかのようだ」
その言葉に、高橋は思わず身を乗り出した。
「そう思うか? 私もそう感じたんだ。特に、死後の世界についての記述が、妙にリアルでね」
鈴木は本を閉じ、深い溜息をついた。
「高橋、君は死後の世界を信じるかい?」
突然の問いに、高橋は言葉に詰まった。哲学者として、彼は常にそのテーマと向き合ってきた。しかし、個人的な信念となると……。
「正直、分からない。科学的には証明されていないが、かといって否定もできない。君はどうだ?」
鈴木は、窓の外を見つめながらゆっくりと口を開いた。
「私は……信じているよ。というより、経験したんだ」
高橋は驚きに目を見開いた。
「経験? どういうことだ?」
鈴木は高橋の方を向き、真剣な眼差しで語り始めた。
「覚えているかい? 私が子供の頃、重い病気にかかったことを」
高橋は頷いた。鈴木が幼少期に重病から奇跡的に回復したことは、以前聞いたことがあった。
「あの時、私は一度死んだんだ。そして……何かを見た。言葉では表現できないような、光に満ちた世界を」
鈴木の声は、かすかに震えていた。高橋は言葉を失った。親友が、こんな経験をしていたとは……。
「そして、『奇跡的な回復』を経て私は戻ってきた。なぜだか分からない。でも、あの経験が私を神学へと導いたんだ」
高橋は、複雑な思いで鈴木を見つめた。彼の信仰の源が、こんなところにあったとは。
「『奇跡的な回復』か……」
言葉を探していると、突然、窓の外で不思議な光の現象が起こった。まるで、空気そのものが輝いているかのような、幻想的な光景だった。
「あれは……!」
二人は思わず窓際に駆け寄った。しかし、その光はすぐに消えてしまった。
「今のは一体……」
高橋が呟いた時、研究室の隅に置かれた古い砂時計が、不意に動き出した。彼は驚いて振り返ったが、それはすぐに止まってしまった。
「気のせいか……」
高橋は首を傾げたが、どこか不思議な予感が胸の奥に広がっていた。彼はまだ気づいていなかった。これらの出来事が、彼の人生を大きく変えていく序章に過ぎないことを……。
研究室の静寂を破ったのは、鈴木の深い溜息だった。
「高橋、この本の内容と今の現象……何か関連があるのかもしれないね」
高橋は無言で頷いた。彼の心の中で、様々な思いが渦巻いていた。哲学者としての理性は、これらの出来事を単なる偶然の一致として片付けようとする。しかし、彼の内なる何かが、もっと深い意味があると囁いていた。
「ところで」鈴木が口を開いた。「この本は、どこで手に入れたんだい?」
その質問に、高橋の脳裏に久遠有希の姿が蘇った。彼女の神秘的な瞳、そして黒い石のペンダント。
「ある古書店でね。そこで働いている女性に勧められたんだ」
「へえ、その女性にも会ってみたいものだ」鈴木の目が好奇心に輝いた。「彼女も、この本の内容について何か知っているかもしれない」
高橋は少し躊躇した後、決意を固めたように言った。
「そうだな。実は私も、もう一度会いたいと思っていたんだ。一緒に行ってみないか?」
鈴木は笑顔で頷いた。「ぜひとも」
二人が研究室を出ようとしたとき、廊下で学生たちの騒がしい声が聞こえてきた。
「先生方! 外を見てください! 信じられない光景です!」
高橋と鈴木は慌てて窓際に駆け寄った。そこで彼らが目にしたのは、先ほどよりもさらに強烈な光の現象だった。空全体が虹色に輝き、まるで別世界の入り口が開いたかのようだった。
「これは……」高橋は言葉を失った。
「まるで、天国の門が開いたようだ」鈴木がつぶやいた。
その瞬間、高橋の頭に、本の一節が蘇った。
「生と死の境界は、時に目に見える形で現れる。それは、人々の強い感情が具現化したものだ」
彼は震える声で鈴木に語りかけた。
「この現象、もしかしたら……」
鈴木は静かに頷いた。
「そうかもしれない。私たちの目の前で、生と死の境界が可視化されているのかもしれないね」
光の現象は数分間続いた後、徐々に薄れていった。残されたのは、言葉にならない感動と、深い畏怖の念だった。
「高橋」
鈴木が真剣な表情で言った。
「私たちは、何か大きなものに巻き込まれつつあるのかもしれない」
高橋は黙って頷いた。彼の心の中で、哲学者としての好奇心と、人間としての不安が交錯していた。
「とにかく、あの古書店に行ってみよう」
高橋は決意を込めて言った。
「あの女性に、もう一度会う必要がある」
二人は急ぐように大学を後にした。街の喧騒が、彼らを包み込む。しかし、高橋の頭の中は、まだあの光の現象と、久遠有希の謎めいた微笑みでいっぱいだった。
◆
古書店に着くと、高橋は少しためらいながらドアを開けた。店内は相変わらず薄暗く、古い本の匂いが漂っている。
「いらっしゃいませ」
奥から聞こえてきた声に、高橋は心臓が高鳴るのを感じた。有希が姿を現す。彼女は相変わらず黒い服を着て、例の黒い石のペンダントを首にかけていた。
「ああ、昨日の……」
有希は高橋を認めると、少し驚いたように目を見開いた。そして、彼の隣にいる鈴木に気づく。
「お連れ様ですか?」
「ええ、友人の鈴木です」
高橋は紹介した。
「実は、昨日の本のことで……」
有希の表情が、一瞬だけ硬くなったように見えた。しかし、すぐに穏やかな微笑みを浮かべる。
「その本のことですか。どうでしたか? お楽しみいただけましたか?」
高橋は深く息を吐いた。
「はい、とても……刺激的な内容でした。著者のことを、もっと詳しく知りたいのですが」
有希は静かに首を横に振った。
「申し訳ありません。著者については、私にも分からないのです」
その言葉に、高橋は少し落胆した。しかし、諦めるわけにはいかない。
「そうですか……では、せめてこの本についてもう少し」
高橋が言葉を続けようとしたとき、有希のペンダントが突然、不思議な輝きを放った。それは一瞬のことだったが、確かに高橋の目に映った。
「あの、そのペンダントは……」
有希は無意識のように、ペンダントに手をやった。
「これですか? ただのつまらない装飾品ですよ」
しかし、その言葉とは裏腹に、有希の目には何か深い感情が宿っているように見えた。
高橋は、もっと質問をしたかった。しかし、有希の態度には、それ以上の追及を許さない雰囲気があった。
「そうですか……ありがとうございました」
高橋と鈴木は、もやもやした気持ちを抱えたまま古書店を後にした。外に出ると、夕暮れの街が彼らを迎えた。
「どうだった?」
鈴木が尋ねた。
高橋は複雑な表情で答えた。
「正直、よく分からない。でも、あの女性には何か秘密がある。それだけは確かだ」
二人は無言で歩き始めた。頭上では、夕焼け空が赤く染まっていく。高橋の心の中で、疑問と好奇心が渦巻いていた。彼はまだ気づいていなかった。この謎めいた女性との出会いが、彼の人生観を根底から覆すことになるとは……。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます