【哲学的ファンタジー小説】永遠の瞬間 ― 死と哲学者の対話
藍埜佑(あいのたすく)
第1章「邂逅」
高橋哲也は、大学の研究室を出る際、ふと窓の外を見やった。秋の夕暮れが、キャンパスの木々を赤く染めている。その光景に、彼は何か言葉にできない感慨を覚えた。
「人生も、こんな風に徐々に色づいていくのだろうか……」
その思いは、彼の胸の奥深くで、かすかな痛みとなって響いた。45歳。人生の折り返し地点を過ぎたことを、彼は痛感していた。しかし、その感覚は単なる年齢への不安ではない。どこか、もっと本質的なものだった。
研究室を後にし、高橋は帰路につく。しかし、いつもの道を歩いていると、どこか胸がざわつくのを感じた。まるで、何か重要なことを忘れているような、そんな落ち着かない気分だ。
「ああ、そうだ」
彼は思い出した。最近気になっていた古書店に立ち寄ろうと考えていたのだ。その店は、大学の帰り道からは少し外れた場所にあった。高橋は普段の道を外れ、古びた看板のある路地に足を踏み入れた。
古書店の扉を開けると、古い本の香りが鼻をくすぐった。薄暗い店内には、所狭しと本が並んでいる。高橋は、その光景に心が落ち着くのを感じた。本に囲まれた空間は、彼にとって最も安らげる場所だった。
棚を眺めながら奥へと進んでいくと、不意に背後から声をかけられた。
「何かお探しですか?」
振り返ると、そこには一人の若い女性が立っていた。黒髪が美しく、深い瞳が印象的な女性だ。しかし、それ以上に高橋の目を引いたのは、彼女が身につけている黒い石のペンダントだった。
「いえ、特には……」
高橋は少し戸惑いながら答えた。女性の存在感に、どこか圧倒されるのを感じる。
「そうですか。でも、あなたはきっと何かを求めてここに来たのでしょう?」
女性の言葉に、高橋は思わず息を呑んだ。その瞳には、年齢以上の深い洞察力が宿っているように見えた。
「私は久遠有希と申します。もしよろしければ、おすすめの本をご紹介しましょうか?」
有希と名乗った女性は、高橋を導くように棚の前へ歩み寄った。彼女の動きには、不思議な優雅さがあった。高橋は、自分がこの女性に引き寄せられていくのを感じた。それは単なる外見的な魅力以上のものだった。
「これはいかがでしょうか」
有希が手に取ったのは、古びた装丁の一冊だった。タイトルには「生と死の間で」とある。高橋は、その本を受け取りながら、有希の指が自分の指に触れたのを感じた。その瞬間、不思議な感覚が全身を駆け巡った。
「この本は、今のあなたにぴったりだと思います」
有希の言葉に、高橋は無意識のうちに頷いていた。彼は、自分がなぜこの本を買おうとしているのか、理解できなかった。しかし、それ以上に強い衝動に駆られていた。
レジで会計を済ませ、店を出る際、高橋は再び有希と目が合った。彼女は微笑んでいたが、その笑顔には何か哀しげなものが感じられた。
「またいらしてください」
有希の言葉に、高橋は何か返事をしようとしたが、言葉が出てこなかった。ただ、軽く会釈をして店を後にした。
外に出ると、すっかり日が暮れていた。街灯の明かりが、ぼんやりと路地を照らしている。高橋は胸に抱えた本の感触を確かめるように握りしめた。
家路につきながら、高橋の心の中で、有希の姿が繰り返し蘇った。彼女の神秘的な雰囲気、そして黒い石のペンダント。それらが、高橋の心に強く焼き付いていた。
「一体、あの人は……」
つぶやきながら、高橋は夜の街へと歩みを進めた。彼はまだ気づいていなかった。この出会いが、彼の人生を大きく変えることになるとは……。
◆
自宅に戻った高橋は、居間のソファに深く腰を沈めた。手には、古書店で購入した「生と死の間で」という本がある。表紙の手触りは、長い年月を感じさせるほど滑らかだった。
「さて、どんな内容なんだろうか……」
高橋は静かに本を開いた。しかし、最初のページを読み始めた瞬間、彼の目は釘付けになった。そこには、人生と死についての深遠な考察が綴られていたのだ。
「人は生きるために死を必要とし、死ぬために生きる。この逆説こそが、人間存在の本質ではないだろうか」
その一文に、高橋は強く心を揺さぶられた。哲学者である彼にとって、生と死の問題は常に関心事であった。しかし、この本の著者の洞察は、彼のこれまでの考えを根底から覆すほどの衝撃を与えた。
「こんな本が、あの古書店に……しかも、あんな神秘的な女性に勧められるとは」
高橋の頭に、久遠有希の姿が浮かんだ。彼女の深い瞳、そして身に着けていた黒い石のペンダント。それらが、この本の内容と不思議なつながりを感じさせた。
時計を見ると、気がつかないうちに深夜を回っていた。しかし、高橋の目には一切眠気がなかった。彼は夜通し本を読み続けた。そして、夜明け近くになってようやく最後のページを閉じた。
「これは……ただの本ではない」
高橋は呟いた。この本は、彼の人生観を根底から揺るがすものだった。生と死、存在の意味、そして愛。それらのテーマが、これほど深く、これほど鮮やかに描かれた本を、彼は今まで読んだことがなかった。
疲れた目をこすりながら、高橋はベッドに向かった。しかし、彼の頭の中は、まだ本の内容で一杯だった。そして、彼が目を閉じた瞬間、不思議な夢を見始めた。
夢の中で、高橋は広大な砂漠にいた。遠くに、一人の人影が見える。近づいてみると、それは久遠有希だった。彼女は黒い石のペンダントを手に持ち、高橋に向かって微笑んでいる。
「あなたはまだ、本当の意味を理解していない」
有希の声が、砂漠の風に乗って響く。高橋が答えようとした瞬間、彼は目を覚ました。
「はっ……!」
高橋は激しい動悸を感じながら起き上がった。枕元の時計を見ると、午後2時を回っていた。彼は慌てて起き上がり、着替えを始めた。
「しまった、今日は講義があったんだ」
急いで大学に向かう途中、高橋の頭には昨夜読んだ本の内容と、有希が出てきた奇妙な夢が去来していた。彼はまだ気づいていなかった。この本との出会い、そして有希との邂逅が、彼の人生を大きく変えていくことになるとは……。
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