第7章「試練」

 高橋哲也は、大学の図書館で古書を調べていた。書架の間を縫うように歩きながら、彼は「死」に関する様々な文献を手に取っては戻す作業を繰り返していた。


 その時、突然めまいに襲われた。


「くっ……」


 高橋は書架に手をつき、体勢を整えようとした。しかし、視界が徐々に暗くなっていく。


「先生、大丈夫ですか?」


 学生の声が遠くから聞こえてくる。高橋は答えようとしたが、言葉が出なかった。そして、意識が闇に沈んでいった。


 ……


 目を覚ますと、そこは見慣れない白い部屋だった。病室だと気づくまでに、少し時間がかかった。


「やっと目を覚ましましたね」


 ベッドの横には、白衣を着た中年の医師が立っていた。


「何が……?」


「図書館で倒れられたそうです。検査の結果、重度の心臓弁膜症が見つかりました」


 医師の言葉に、高橋は息を呑んだ。


「どのくらい深刻なんでしょうか?」


 医師は、少し躊躇した後で口を開いた。


「正直に申し上げますと、かなり進行しています。このままでは……半年ももたないかもしれません」


 その言葉が、高橋の心に重くのしかかった。しかし、奇妙なことに、彼は大きな動揺を感じなかった。むしろ、ある種の覚悟が心の奥底に芽生えるのを感じた。


「分かりました。ありがとうございます」


 医師は、高橋の冷静な反応に少し驚いた様子だった。


「今後の治療については……」


「少し、考える時間をいただけますか」


 高橋の静かな要望に、医師は黙って頷いた。


 医師が部屋を出た後、高橋はゆっくりと起き上がり、窓の外を見た。夕暮れの空が、病院の庭の木々を赤く染めていた。


 その時、ノックの音がして、鈴木誠司が部屋に入ってきた。


「高橋、大丈夫か?」


 鈴木の声には、深い心配が滲んでいた。


「ああ、まあね」


 高橋は、淡々とした口調で自分の状況を説明した。鈴木は、言葉を失ったように黙り込んだ。


「君は……死ぬのか?」


 鈴木の問いに、高橋は静かに微笑んだ。


「いずれは誰もがね。ただ、僕の場合は少し早まっただけさ」


「どうして、そんなに冷静でいられるんだ?」


 高橋は、窓の外を見つめながら答えた。


「僕には、まだやるべきことがあるんだ」


「やるべきこと?」


「ああ。人間の生と死、そして愛の本質について、最後の探求をしたいんだ」


 鈴木は、困惑の表情を浮かべた。


「でも、そんな大きなテーマを、残された時間で……」


「だからこそ、今なんだ」


 高橋の目には、強い決意の色が宿っていた。


「誠司、君に手伝ってほしいことがある」


「何でも言ってくれ」


「僕の研究ノートを整理して、一冊の本にまとめてほしい」


 鈴木は、友人の真剣な表情に押されるように頷いた。


「分かった」


「ありがとう」


 二人のやり取りは簡潔だったが、これまでの深い絆を感じさせて。


 その時、窓の外でまたもや不思議な光の現象が起こった。まるで、空気そのものが虹色に輝いているかのような、幻想的な光景だった。


「あれは……!」


 二人は思わず窓際に駆け寄った。


「美しい……」


 鈴木が呟いた。


「ああ、美しい。そして、意味深長だ」


 高橋の言葉に、鈴木は首を傾げた。


「どういう意味だ?」


「おそらくあの光は、人々の強い感情が具現化したものなんだ。僕たちの目には見えないけれど、常に存在している。そして今、それが可視化された」


 鈴木は、半信半疑の表情を浮かべながらも、その説明に聞き入った。


「高橋、君は一体何を知ったんだ? どうしてそんなことがわかる?」


 高橋は、親友の目をまっすぐ見つめた。


「僕は知った。死の本質を、そして生きることの意味を……」


 その言葉に、鈴木は言葉を失った。しかし、彼の目には、友人への深い信頼と、これから始まる未知の探求への期待が宿っていた。


 その時、病室のドアがゆっくりと開いた。そこに立っていたのは、久遠有希だった。彼女は、相変わらず黒い服を纏い、首には例の黒い石のペンダントが光っていた。


「よく来てくれた」


 高橋の声に、有希は静かに頷いた。


「時が来たのを感じたのです」


 有希の言葉に、部屋の空気が一瞬凍りついたように感じられた。鈴木は、戸惑いの表情を浮かべながら、高橋と有希の間を交互に見つめた。


「高橋、彼女が……?」


「ああ、彼女が『死』だ」


 高橋の言葉に、鈴木は息を呑んだ。しかし、彼の目には恐怖よりも、深い洞察の光が宿っていた。


「先生、あなたには選択肢があります」


 有希の言葉に、高橋は静かに頷いた。


「どんな選択肢だ?」


「今すぐ私と共に行くか、それとも……もう少し時間を過ごすか」


 有希の言葉が、静かに病室に響き渡った。その瞬間、時間が止まったかのように感じられた。窓から差し込む夕暮れの光が、有希の黒髪に赤い光沢を与え、彼女の存在をより神秘的なものに変えていた。


 高橋は、ベッドに腰かけたまま、じっと有希の目を見つめた。彼女の瞳は、まるで宇宙の深淵を覗き込むかのようだった。そこには無数の星が瞬き、永遠の時間が流れているようにも見えた。高橋は、その眼差しの中に、人類の歴史全てを見る思いがした。


 部屋の空気が、一瞬にして張り詰めた。鈴木は、息を潜めたまま、この異様な空気の中で友人の決断を待った。彼の額には、小さな汗が浮かんでいた。


 高橋の心の中で、様々な思いが交錯した。これまでの人生、未完の研究、そして有希との出会いから今までの全ての瞬間が、走馬灯のように駆け巡る。彼は、深く息を吐き、ゆっくりと口を開いた。


「もう少し……時間をくれないか」


 その言葉は、決意に満ちていながらも、どこか儚さを含んでいた。高橋の声には、生への執着と、死への覚悟が同時に滲んでいた。


 有希は、その言葉を受けて、静かに目を閉じた。そして、再び開いた彼女の瞳には、慈愛のような感情が浮かんでいた。彼女はゆっくりと頷き、柔らかな声で答えた。


「分かりました。でも、長くはありません」


 その言葉と共に、有希の姿が徐々に薄れていくように見えた。彼女の輪郭が曖昧になり、まるで霧の中に溶けていくかのようだった。最後に残ったのは、彼女の黒い瞳の輝きだけだった。


 有希の姿が完全に消えると、部屋の空気が一気に和らいだ。鈴木は、大きく息を吐き出した。高橋は、まだ有希がいた場所をじっと見つめていた。


 時間は与えられた。しかし、それは有限だった。高橋は、この貴重な時間をどう使うべきか、深く考え始めた。


 病室に残された二人は、長い間沈黙を守った。やがて、鈴木が静かに口を開いた。


「高橋、君は……本当に『死』と対話しているのか?」


 高橋は、窓の外を見つめながら答えた。


「ああ。そして今、僕は人生最後の試練に直面しているんだ」


 鈴木は、友人の横顔を見つめた。そこには、恐れや不安ではなく、静かな決意の色が浮かんでいた。


「どうするつもりだ?」


「残された時間で、僕にしかできないことをしようと思う」


 高橋は、病室のベッドに腰掛けながら、これからの日々に思いを巡らせた。彼の頭の中では、哲学的な思考と、人生への深い洞察が交錯していた。そして、久遠有希との最後の対話への期待が、静かに心の奥底で燃え始めていた。


 窓の外では、夜空に満月が昇り始めていた。その光は、高橋の新たな旅立ちを祝福するかのように、優しく、そして神秘的に輝いていた。

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