第5話

「碓井さんって、物好きですよね。外遊びに口を出さないお飾りの奥さんなら、いくらでもほかに当てがあったでしょうに…私以上に心証が良くなりそうな可哀想な子、いなかったんですか?」


不自然でない程度に結婚を急がせて、明日香の荷物ごと碓井の屋敷に連れて帰ったその日、荷解きを手伝う碓井に、明日香が笑いかけてくれることは一度もなかった。


そのうえとげとげしい口調でこんな風に嫌味たっぷりのセリフを投げてくる。


時間軸が変われば人の感情も変わってしまうのかもしれない。


だとしたら物凄く厄介だ。


こっちの明日香はこんなに好感度が低いのかとげんなりするが、けれどそれ以上に、動いてしゃべっている明日香に会えたことが嬉しかった。


広橋の両親も、お家騒動で心労こそ溜まっているようだったが、あの時よりもずっと元気そうで、唯一の気がかりだった一人娘の嫁ぎ先も無事に決まって、ほっとした様子だった。


うちの子をよろしく、と何度も頭を下げる彼らの期待に応えるためにも、全力で明日香を幸せにしなくてはならない。


あちらの世界の明日香の分も。


「…明日香、俺がきみに結婚を申し込んだのは、きみが可哀想な子だったからだと思ってる?」


「…思ってますね。だっていまや禁句タブーになった広橋家ですよ、私」


自嘲気味に笑う明日香の顔には、諦めの色が濃く見えた。


たしかに、広橋家が存在を消したのは事実だ。


禁句タブーになった広橋家と、明日香の家は何も関係ないだろう。オメガ売買の斡旋を行っていたのは、広橋の本家の一部の人間で、そのほかの人間は白だって

決着がついてるはずだろ」


この国を守る側に立つべき者が、海外へオメガを売り渡す橋渡しを裏で行っていたことが分かったのは、【複合型】案件の捜査のさなか。


捜査線上に浮かんだ密売人が、広橋と取引のある海外の商家だったことで、広橋家当主は重要参考人から、一気に被疑者へと昇格して、最終的には犯人になった。


設立間もない養成機関アカデミーから犯罪者を出すわけにはいかない。


ましてやそれが役員で、そのうえ始祖血統ハイブリッドにつながる家の当主だなんて、前代未聞の大事件である。


是が非でも事件の首謀者の首を挿げ替える必要がある、と判断が下され、幸徳井が水面下で走り回って政財界に働きかけて、この事件の首謀者は、海外マフィアと取引のあった指定暴力団による犯行、という結果に落ち着いた。


いわゆるトカゲのしっぽ切りである。


これで陰陽寮は、警察庁と厚労省に大きな借りを作ることになった。


だから、新聞のどこにも広橋家の文字は出てこなかった。


「でも、みんな一斉に広橋を棄てて出ていきましたよね…まあ、うちもそうだけど」


すでに重度の薬物中毒に陥っていた広橋家当主は謹慎中に死亡して、近親者は監視付きの蟄居を命じられており、二度と陽の目を見ることはない。


確かに、広橋に残っていいことなんて一つもないのだ。


だってこの名前でいる限りは、少なからずそういう目で見られる。


すでに陰陽寮で確固たる地位を築いている実力者なら胸を張って生きていけるだろうが、明日香は違う。


際立った能力もなく、大学卒業後の進路も定まらず、陰陽寮の急募求人に飛びついて、どうにかお小遣いを稼いでいるようなしがない一般人だ。


誰かの後ろ盾がなくては、生きてはいけないことを、きっともう嫌になるほど感じている。


だから、そこに付け込んで、碓井の家に取り込むことにしたのだ。


「きみが広橋を名乗ることはもう二度とないよ。ね、碓井明日香さん」


無事に婚姻届も提出して、晴れて夫婦になったわけなので、もう一生彼女を広橋に返すつもりはない。


少しくらい笑ってほしいなと思ったが。


「……苗字はありがたく頂戴しますが、碓井に甘えるつもりはありませんので、ご安心ください」


相変わらずの塩対応が返ってきて、さすがに碓井は肩を落とした。


「……きみを救い出したつもりだったんだけど、俺はあまり歓迎されてない?」


これでもベストな方法を選んだつもりだったのだが。


「それは私のほうですよね?このお屋敷の人たちは、みんな私のことを邪魔者だと思ってるし、碓井さんの妻には相応しくないと思ってる」


「俺が勝手に決めて走った縁談だったから、屋敷の人間は戸惑ってるだけだよ」


出来るだけ信頼のおける人間のそばに明日香を置いておきたくて、碓井の屋敷を選んだけれど、立て続けにお見合いを蹴とばして独身主義を貫いていた一人息子が、いきなり嫁を連れてきたせいで、屋敷の人間はパニック状態だった。


両親には事前に話を通しておいたが、彼らも驚きすぎて細かな指示まで出せなかったのだろう。


どうせすぐそばの別邸で暮らすのだし、問題はないと思っていたが、最初の挨拶で感じた使用人たちの困惑を、明日香は敏感に感じ取ったらしい。


「私では重石の役割は、到底務まりませんから、どうぞお好きになさってくださいね」


「え?それはどういうこと?」


「いくらでも好きな方のところに行ってくださって結構ですよってことです。これは、碓井さんがプライベートを謳歌するための偽装結婚ですよね?必要な場面では妻としての役割を果たしますからご心配なく」


「え…ちょ、ちょっと待って、明日香。もしかして、この結婚は、俺があの遊び人もとうとう落ち着いたかって思わせるための結婚だって思ってる?」


「はい。そう思ってます。祖語はありませんので大丈夫です」


「………いや、違う、違うよ?」


何をどう説明すればいいのか分からない。


俺はきみに会いたくて、起きているきみと話がしたくて、もう二度と眠り続けるきみを見たくなくて、だから、未来を変えようといま必死なんだよ。


胸に湧いてくる思いをすべてぶつけられれば良いが、そんなことをしたら、明日香は余計混乱するに違いない。


「違うって言われても」


信じられません、ときっぱり言われて、それなら、と一番シンプルな言葉を選んだ。


「俺はね、きみに会いたかった」


ふいに、こちらに来る前の、明日香の母親の問いかけを思い出した。


「碓井さんは……うちの明日香のことを、好きで居てくれたんですか?」


「明日香のことが、ずっと好きだったよ」


それだけを思って、ここまで来たんだよ。

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