第4話
にわかには信じがたいことだが、この世界には、時空を歪める方法が確かに存在する。
それを自由自在に操ることが出来る人間に出会ったことはまだないが、その歪みに飲み込みこまれると、時間軸を行き来できることだけは分かった。
いつ、どのタイミングでそれが起こるのかまでは、分からないけれど。
・・・・
最初に病院へのお見舞いを決めたのは、責任感から。
業界に席を置いてそれなりに長いが、腕の中に血染めの誰かを抱きしめたのは初めてのことだった。
おとぎ話で語られるような勧善懲悪ヒーローも陰陽寮の中にはいるが、それはごく一部の人間で、大半の者は、星を読んだり、占いをしたり、時々頼まれて祓い事を行ったりと、比較的地味な仕事をしている。
かくいう碓井も、事件現場に呼ばれることはあっても、派手なドンパチに巻き込まれることはほとんどなかった。
呪いで人が死ぬことはあっても、目の前の人間が銃で撃たれるなんて、完全に別世界の出来事だと思っていたのだ。
あの事件に居合わせた人間の中で、まともに動けるのは、自分一人だけだったから、必要に駆られて動いたところも大いにあった。
乱射事件の被害者は合計三人。
そのうちの二名、西園寺真緒と、卜部伊夜は、病院に運ばれた後処置もむなしくどちらも亡くなっている。
残された龍詠と卜部は、
それでも誰も上を責めないのは、今回の事件に陰陽師か関わっていたという噂が出回っているせいだ。
主要派閥が手を組んだとはいえ、長い歴史のある家同士、それぞれの思惑も展望もある。
誰が味方で誰が敵かわからない。
一枚岩となっていたはずの
そして、それを知りながら陰陽寮が手を下さないのは、やはり事件の黒幕に有力派閥が絡んでいるからではないのか、そんな噂が後を絶たない。
生き残った明日香は、肩を負傷していたが治療の後も昏睡状態が続いており、このまま目覚めない可能性のほうが高い、と意識から説明も受けていた。
広橋の両親は、毎日病室を訪れては娘の枕元で声を掛け続けているが、それもいつまで続くかわからないほど、彼らも憔悴しきっている。
もっと早く彼女を見つけられていたら、この手を伸ばせていたら。
あの言葉を、別の場所で聞くことが出来たのだろうか。
誰かを思って眠れない夜を過ごしたこともなければ、追いすがってでも離れたくない相手と出会ったこともない。
出会いと別れは常にセット。
だから、境界管理の仕事は碓井の性に合っていた。
お気に入りの店を見つけておけば、居場所には困らないし、適度に愛想を振りまいてお金を落とせば、欲しい情報を集めるのは簡単だ。
あんな事件が起こらなければ、きっとずっとあのままだったと思う。
珍しく昼間に病室を覗けば、明日香の母親がお見舞いに来ているところだった。
以前より、さらに小さくなった気がする。
明日香の父親が、どんどん食欲が落ちていると零していたことを思い出した。
一人娘がこんな状態では無理もない。
「碓井さんもお忙しいでしょうに…毎回綺麗な花を届けてくださって、ありがとうございます。娘も…憧れの碓井さんからの贈り物を、喜んでいると思います」
「…俺なんかが…花を贈る権利…本当はないのかもしれないです」
境界管理の仕事には諜報活動も含まれる。
情報という武器を扱う自分が、あの事件の前に何か掴んでいたら、状況は変わっていたかもしれない。
それを思うたびにやるせない気持ちでいっぱいになる。
「そんなことありませんよ…あの子ね、碓井さんに助けていただいたことをずうっと覚えてて、どんな噂が独り歩きしても、絶対に碓井さんの味方をするんだって、いつもそう言ってましたから」
「え…助けた?あの…俺がですか?」
「たぶん、碓井さんにとってはそういうのって日常なんでしょうね…でも、あの子にとっては物凄く特別な出来事だったみたいですよ。なんせ、陰陽寮に入って間もない頃でしたから…ずーっと神経を張り詰めてピリピリしてて、私とお父さんも扱いに困ってたんです…そんな時に、碓井さんに助けてもらって、あの子の棘が抜け落ちたみたいで…久しぶりに明日香らしい笑顔が見れたって、二人で喜んだんですよ」
だから、ずっと感謝してるんです、と続ける明日香の母親の言葉は、ほとんど耳に入ってこない。
どこだ?どのタイミングで?俺があの子を助けた?
陰陽寮で過ごした時間を必死に思い出すけれど、どの場面にも明日香の姿は見えない。
どこで取りこぼしてしまったのだろうか。
「…今日は、お会いできてよかったです。これで、私たちも踏ん切りがつきました…先生からも、潮時だって言われていたんですが…どうしても、希望を棄てられなくて……明日香も、ここまで頑張り続けて疲れただろうから……そろそろ眠らせてやろうって、昨日話し合ったんです」
延命治療をどこまで続けるのかは、親族に委ねられている。
いつまでも目覚めないわが子を、これ以上管につないでこの世にとどめておくことが、苦しくなったのだろう。
待ってくれと叫びたい気持ちでいっぱいになったが、それを口にする権利なんて、持ち合わせていない。
「……わかり…ました」
「本当に、長い間ありがとうございます」
丁寧に頭を下げる母親に、同じように返して、きつく目を閉じる。
こんな現実なら、今すぐ消えてなくなってしまえばいい。
どうせこの世界には、救いの神なんてものは存在しないのだ。
好きなだけ胸の内で罵れば、少しだけ溜飲が下がった。
けれど、代わりにこみあげてくるのは虚しさだ。
やり切れずに天井を見上げた、その時。
何か重たくて冷たいものに飲み込まれるような錯覚を覚えた。
無力な自分の存在が、この世界から少しずつ消えていくような不思議な感覚に襲われる。
「碓井さんは……ですか?」
「…え?」
明日香の母親の問いかけが聞こえずに問い返した瞬間、世界が一変していた。
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