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 あれから六日が経ちました。

 あの日私は、最後のページを読み終えるやいなや、悪夢から目覚めたように悲鳴をあげました。それからのことは、あまりよく覚えていません。黒い本を打ち捨て、その場を走り去りました。入り口を施錠することも忘れて。気がついた時には、私は自宅のベッドの上で一人震えていました。翌日になって確認に行くこともできず、それどころか、あの日以来出勤することもできずにいます。家からも出られず、食事も喉を通らず、ベッドの上で三角座りをして、あの日のことを、あの本に書かれていたことを、ただひたすら考え続け、そうした長い思索の末、私は筆を取るに至ったのです。


 思えば、私はあの黒い本に出会う運命だったのでしょう。本が好きで、本に囲まれた場所が好きで、本の虫と呼ばれるような人間だからこそ、あの本と出会うべくして出会ったのです。黒い本は、私の全てを受け入れてくれました。黒い本と私は一つになったという感覚が、あの時確かにあったのです。

 言葉には不思議な力があります。私たちは文字という記号の羅列に、一喜一憂させられます。それは時として生への原動力になり、また時として誰かの生を奪う凶器にもなります。気がつけば言葉はそこらじゅうに転がっていて、どこもかしこも言葉で溢れています。私たちが無自覚に使う言葉たちは洪水のように氾濫し、私たちを飲み込んでいます。私たちの行動は言葉によって定義され、ゆえに言葉は私たちから自由を奪います。私たちの前に言葉があります。私たちは皆、言葉の奴隷なのです。

 そして、集積された言葉たちは、本になります。本の中には、ありとあらゆる言葉が詰まっています。エネルギーの集合はより巨大なエネルギーを生み出し、私たちはそれを一身に受けるために、本を読みます。あの日誰にも伝わらなかった私の言葉も、本の中には必ずあるのです。心ない言葉をかけられて涙した日も、私は本に救われました。私が感じた怒りは間違っていなかったと、本は私を肯定してくれます。私の読んだ本はまた誰かの元へ旅をします。本屋から誰かへ。図書館から誰かへ。ネットから誰かへ。誰かから誰かへ。本のエネルギーは言葉を媒介して、人から人へ伝わっていくのです。

 もうお気づきの方もいることでしょう。これこそが黒い本の目的なのです。私が今お伝えしたのと概ね同じことが、黒い本には書かれていました。言葉、図書館、噂、都市伝説、スマートフォン。これらの手段を利用して、黒い本は生存範囲を拡大しているのです。物から人へ、人から人へ。まるでウイルスのように。私はもはや黒い本の奴隷です。私がここに記した言葉にも、この画面にも、黒い本の力は宿ります。黒い本はこうして増えていくのです。

 黒い本に書かれた通り、私はきっと明日には死ぬことでしょう。でも、何ひとつ後悔していません。唯一無二の読書体験は、まさに私の人生を変えた。私たち本の虫は、こういう体験がしたくて本を読むのです。誰も見向きもしない虫けらに、物語にさえならない私の生に、黒い本は大いなる意味を与えてくれたのです。


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