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 そして、七月某日、日曜日の夜。私が施錠当番で、翌日が休館日のその日、私はついに決行しました。最後に戸締りをして、館内には誰もいないことを確認した上で、一旦帰宅。深夜一時五十分、私は家を出て図書館に向かいました。

 いくら職員とはいえ、深夜の図書館に忍び込むなど、褒められた行為でないことは重々承知しています。そう遠くないところには飲み屋街もあり、人がいないとも限りません。小心者の私は、状況によっては金次郎像を一目見て帰るだけにするつもりでいました。

 奇しくも、満月の夜でした。空には雲ひとつなく、天の川が見えようかというほどの星空が頭上に広がっていました。こんなに明るくては、誰にも見つからずに忍び込むのはいっそう難しいのではないか。建物の周りを散歩するだけにしようか、と、そんなようなことを考えながら角を曲がると、図書館が姿を現しました。和風の建築様式が月光に照らされ、神秘的な雰囲気を醸しています。これほど深い夜にこの建物を目にすること自体が初めてだということに、この時になって気がつきました。


 正面玄関のすぐそばには、例の金次郎像もありました。おかしなところは特に見られません。血の涙も流していませんし、手の中の本も変わらず開かれたままでした。しかし、それよりも私の目は、正面玄関の自動ドアにすぐに釘付けになりました。開いていたのです。それも、全開の状態で。冷や汗が一気に噴き出すのを感じました。混乱する頭で、私は夕方の記憶を遡りました。自動ドアのスイッチをオフにして、ドアの下部にある錠を二つ回した記憶を。その記憶に間違いはないはずです。なぜなら、今夜忍び込むかもしれないと、いつも以上に慎重に行ったのですから。私の瑕疵でなければ、泥棒か、あるいは他の職員か。いずれにしてもあまりにも不審です。「たまたま」鍵を持ち歩いていた図書館の非常勤職員にできることは、すぐさま警察に通報するか、素知らぬ顔で入り口のドアを施錠することだけです。しかし、逡巡のさなか、私の体は金次郎像と同じように固まったままでした。奇妙なことに、風が建物の中に向かって吹き込んでいるのです。自動ドアの手前に飾り付けられた、この時期ならではの七夕飾りが、今にも吸い込まれそうな勢いでなびいているのです。空には雲ひとつないはずなのに。ここへ来て私はようやく、何か恐ろしい事態に立ち会ってしまっていると考えるに至りました。すべてを見なかったことにして、一目散に逃げ帰るべきだったかも知れません。もし出勤日に上司から詰問されても、「私は確かに施錠しました」と言い張ればよいのです。しかし、私の好奇心はこんな時に限って、その顔をのぞかせてしまったのです。


  その秘密は図書館の中


 私は恐る恐る、ゆっくりと館内へ踏みいりました。風除室の先、二つ目の自動ドアもやはり開いていました。月の光が差し込む館内に私の足音だけが響き渡ります。背中を押すように風が吹き抜けますが、どの窓も閉じられたままでした。あたりの様子を伺いながら、月の光も届かない建物の奥に向かって、ゆっくりと歩を進めました。慣れ親しんでいたはずの図書館が、漆黒の口を大きく開けて今か今かと私を待ち受けているようでした。書架の並ぶ通路を一列、また一列と通り過ぎたところで、私はある違和感にはたと気づきました。書架の数が、おかしい。分野ごとに区分された書架は、二十三台あるはずです。毎日その間を行ったり来たりしては、返却された本を棚に戻す作業を行っているのですから、私の記憶に間違いはありません。震える指で、右の棚から順に数えました。いち、にい、さん……にじゅうに、にじゅうさん……にじゅう、よん。悲鳴が喉元まで出かかったのを、ごくりと飲み込みました。いっそ悲鳴を上げてしまえば、気を失って倒れてしまえば良かったのに。人間というものは、常軌を逸した状況に置かれると、なおのこと理性的に振る舞おうとするものなのです。


  奥から数えて四番目の棚を探してご覧なさい

  怪しい光を放つ

  闇より黒い本が見つかるでしょう


 私の脳内で、それらの言葉がこだましました。奥から四番目。逃げ出したい衝動とは裏腹に、私の足は少しずつそちらに近づいています。もはや無意識のうちに、何かに導かれるように。……なな、ろく、ご、よん……。私は吸い込まれるように書架の間に入って、存在しないはずの棚を見上げました。一見すると何の変哲もない棚を右上から、ゆっくり視線を這わせてゆきます。心臓の鼓動がやけに耳に響きます。まるで異世界となってしまったこの場所で、あまりにも場違いな生命の拍動。首筋を汗が垂れ、足が震えます。暑いのか寒いのか、それすらも不覚です。この時の私は、見えない何かに全身を掴まれ、引っ張られているような感じでした。

 書架の間の通路を中ほどまで進んだところで、私の視線はぴたりと停止しました。怪しい光を放つ、闇より黒い本。四番目の棚。あった。確かにそれは、光と闇という矛盾する二つの性質を同時に持ち合わせ、まるでブラックホールのように、時間と空間を捻じ曲げてそこにあるようでした。恐る恐る指を伸ばすと、指の腹には確かな本の感触がありました。


  それを読んでしまった者は

  奇怪な死を遂げるからです


 小心者の私が、なぜこのような行為に及んでしまったのか。あの時の私は、私ではなかった。黒い本に誘われ、惑わされていたのかもしれません。それを引っ張り出し、真っ黒なハードカバーの感触を確かめながら、ゆっくりと開きました。汗ばむ指でページを繰ります。一枚、また一枚と。網膜に投影された文字が、視神経を経て、脳で処理されていきます。黒い本が放つ得体の知れないエネルギーが私の脳に浸透していくのを感じます。息が苦しい。震えが止まらない。でも、本を読むのをやめられない。逃げなきゃ。やめなきゃ。捨てなきゃ。理性とは裏腹に、私の指はページをめくり、私の目はそこに書かれたものを隅々まで追うのです。本と私の境目が曖昧になります。私は本当にブラックホールに吸い込まれてしまったようでした。あるいはもしかしたら、私はこれを望んでいたのかもしれません。私の愛するこの場所で、私の求めていたものを独り占め。終わらせなければいけないのに、終わってほしくない。止めたいのに止まらない。これは恐怖? それとも恍惚? 曖昧な境目。一つになる世界。いよいよ最後のページ。この先には何があるのか。これを読み終わった時、私はどうなってしまうのか。あまりにも稀有なこの読書体験は、しかし、あまりにも唐突な一文によって、あっけなく終わりを迎えたのでした。


  この本を読んだ者は

  七日後に死ぬ

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