第2節「アムール川」
ニコラエフスク=ナ=アムレ――日本名「尼港」は、沿海州北部、アムール川河口の港湾都市である。一九二〇年に赤軍に包囲占領されて以来、ソ連の都市であったが、現在はドイツ軍に占領され、間宮海峡に面する港湾基地として整備されている。ウラジオストクがフライングタイガ―義勇艦隊によって散布された機雷により港湾機能を失って以来、ニコラエフスクはシベリアから太平洋に出る唯一の不凍港であり、その重要性は高まっていた。アムール川河口から八〇キロメートル遡上した位置にあり、その北岸に数万名の人口を数える。現在は一般市民よりも多数の軍人が駐留しているとみられていた。
その数、五個装甲師団、二〇個歩兵師団。日本軍の正面戦力は五〇個師団であり、そのうち満州に一〇個、本国に一〇個しか配備していない。環インド洋全域を警備するのに残りの三〇個師団は使用されており、尼港のドイツの二五個師団がそのまま本土に侵攻すれば極めて不利であった。
ドイツ軍はシベリア鉄道やシベリアの河川ネットワークを用いて強襲揚陸艦や輸送艦の部品を輸送し、ニコラエフスクで組み立てており、これらの二五個師団を輸送するのに充分な船舶も整えているようであった。
(これだけの大戦力。樺太だけではない。間宮海峡を南下して北海道に直接侵攻する可能性もある)
イギリスはドーバー戦線、アメリカはカナダ戦線でいずれもドイツ軍に本国を脅かされており、インド洋及び極東地域の防衛は日本軍に任されていた。
つまり、日本軍だけでこのドイツの大軍を相手にしなければならなかった。
(しかし、シベリアをドイツから奪還すればカナダ戦線も好転する。米軍の来援も期待できる状況になる……ここは正念場だ)
アムール川を遡上する戦艦大和の艦橋で薫子は考える。
ドイツが使用していると思われる「Pウィルス」の対抗手段がこの戦いで確立できれば、それを他の戦線に「転用」することも可能になるだろう。
「……神崎薫子」
急に呼びかけられ、薫子は思考を現実に戻した。
「洲月蓉華か」
かつての強硬派、洲月少佐は、対英講和当初は、彼女の「同志」らとともにこれを覆すべく暗躍していたが、ドイツ軍がソ連を倒し、シベリアを一挙に占領するに至り、その危険性を認識し、新連合派――つまりはかつての穏健派に与するようになった。その後スエズ戦線、ジブラルタル戦線、カナダ戦線など各地で転戦し、階級は薫子と並ぶ大佐にまでなっていた。
現在、戦艦大和を旗艦とする連合艦隊第一艦隊の作戦参謀の任に薫子とともについている。
「相変わらず奇襲作戦がお好きですのね」
「好き嫌いではないが、うまくいけば、兵の損失が少なくてすむ」
薫子は簡潔に答えた。
ニコラエフスク攻略作戦は、三段階で行うことになっていた。
第一段階。深夜のうちに戦艦大和を基幹とする戦艦六隻がアムール川を遡上、ニコラエフスクの港湾および駐屯地など軍施設を砲撃により破壊する。
第二段階。夜明けより航空攻撃により市外へ撤退した敵軍部隊を爆撃により撃破する。また、空母部隊がアムール川を遡上し引き続き撤退していく敵を監視・攻撃。同時に、戦艦部隊は航空部隊の観測に従い、アムール川から四〇キロ圏内の敵を徹底的に砲撃・撃破する。
第三段階。第二段階までで敵の主力を撃破し、港湾機能も奪った後、強襲揚陸艦にて陸兵を揚陸、市内を制圧する。同時に、空挺降下して市内主要拠点を制圧する。
地上部隊の投入は空海からの攻撃による敵主力の排除が確認されてから行うこととし、亡者や吸血鬼による優位性を発揮させない作戦としていた。
「……それでも、第三段階までに敵軍の排除が完了している保証はないですわね。市街地を全て破壊しても良いのでは」
蓉華が厳しい顔をして、言う。
「……千登勢大尉の報告に依れば、市民生活は普通に続いている。亡者にされているわけでもない。あらゆる意味で、市街地、特に住宅地の破壊は論外だ」
「――そういうことにしておきましょう」
蓉華は言ったが、これは甘い予測であった。
イルクーツクでは、直前まで英軍のスパイが市内に入り込んでおり、平穏な市民生活が送られていたことを確認している。だが、作戦当日には市内は亡者で満たされていた。まだ実験が足りないのでなんとも言えないが、アーデルハイドにはウィルスの潜伏期間を自在に操れる可能性もある。
つまり、実は既に全員感染しているが、当人たちも気づかず人間として暮らしている――という可能性だ。
(だとしても、一般市民を狙うのは避けねばならない)
薫子はそう判断していた。
その理由はかつてとは少し異なる。以前は英国との講和のため、であったが、すでに講和は達成している。しかし、今や彼女は新連合国の一員として、日本だけでなく世界に対して責任を持つ立場と自覚していた。
「まあ、妥当な判断ですわね。インド洋憲章の精神に照らしても」
意外なことに、蓉華は薫子を責めず、逆に褒めてきた。
(もはや味方だから、蓉華のやつが私を褒めるのも不思議ではないのだが、なんというか気持ち悪い)
そのとき。
「先行する駆逐艦より連絡! 『我、ニコラエフスクを視認! 砲撃座標を送る!』」
いよいよ砲撃に入るときがきた。
薫子はじっと前方の暗闇を見つめた。
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