第8章「最後の決戦」第1節「北樺太にて」

1942年9月に北アフリカ、アラスカ、そして中国を勢力圏におさめたドイツは、その後勢いを減じ、カナダ西海岸、ドーバー海峡、コーカサス、中央アジア、スエズ、ジブラルタル、サハラ砂漠を境界線として、新連合国とのにらみ合いに入った。

 日米英情報当局の一致した見解としては、アラスカ、シベリアの資源開発に注力していたとされる。ドイツにとっては妥当な選択と言えた。なぜなら、資源こそが、かの国が唯一連合国に劣る要素であったのだから。

 一方、新連合国内でも、日本は環インド洋の貿易圏を整備し、その豊富な資源で以て自軍の戦力を増強するとともに、英国にも資源を提供し英軍の強化にも協力した。

「……まあ、感謝しておこう」

 プリシラ・ブラッドフォード英軍大佐が紅茶を優雅に飲みつつ、薫子に言った。

 一年後、一九四三年九月。樺太島、アレクサンドロフ・サハリンスキー。

 現在北樺太は、ソ連亡命政府の許可を得て日本軍が進駐している。旧ソ連領において、ドイツに占領されていない数少ない領域の一つであった。

 その司令部が置かれたホテルの一室で、薫子とプリシラは、間宮海峡を挟み、大陸側の地図を見ていた。

「てっきり、満州を攻めると思っていたがな」

 プリシラは言う。

 ドイツ軍は、一年を経て再び動きを活発化させ始めた。ドイツ軍の動きから、アメリカ大陸ではカナダ西海岸、アフリカ大陸ではスエズ戦線、欧州ではドーバー海峡、そしてここ東アジアでは、間宮海峡が主攻になると思われた。

「単純に考えれば満州を攻めないのは意外だが、まず樺太、日本本土、朝鮮半島に攻め込み、満州を包囲するという考えも分からなくはない。我々東アジア人には分かりにくい感覚だが、完全に客観的にこの地勢を見たら、後ろに回り込むのが妥当と思うのかもしれない」

 言いつつ、薫子はそれでも違和感を覚えていた。

(本当にそうか……? 敵の攻勢拠点……尼港――そこに因縁を感じるのは私の考えすぎか)

「敵の司令官は」

「分からん。国防軍最高司令部が直接指揮している、という情報しかない。司令官の個人名が分からないのは気味が悪いな」

 薫子は答えた。軍令部情報局もドイツへのスパイ活動を全力で行っているが、一般市民に紛れたスパイには、軍の内情が分からない、軍にはそもそもスパイが潜り込めない、という状況だ。

「ふうむ。もしかすると軍人は全て吸血鬼か亡者になっているか」

「まさか。ぞっとしない話だ」

 薫子は寒気を覚えた。気温のせいばかりではない。

 プリシラはじっと薫子を見ている。

「それで、子供はどうした」

「実家に預けている。幸い、私には妹が六人もいる。うち三人は軍人だが、三人は家にいるよ。面倒を見る者には事欠かない」

「お主は冷静だな」

「はっは。母親役は私には似合わん。寧ろ妹らに任せた方がしっかり育つさ。千登勢家にとってもそのほうがいいだろう」

 海軍病院でとりあげてもらってから、ほぼ子供の顔は見ていない。退院してからは、ずっしりと胸が重くなったこと以外、特に母親になったことを意識させることもないまま、作戦立案に従事してきた。

「結局結婚はしないままか」

「全ては、この戦いが終わってからだ」

「――で、お主の未来の夫はどうしている」

「そうなるかどうかは分からんがな、千登勢少佐なら尼港に先行偵察に遣っている。要となる仕事はやはり彼に任せないとな」

 薫子は窓外――北西を見やった。そこにいるはずの玲次を。

「――ふうむ。つまらん」

 プリシラは何やら不機嫌になったようだ。

「どうした。吸血姫殿はまた嫉妬か。かわいいところもあるんだな」

「愚か者。お主は人間に情を移しすぎだ。これから何年生きるかわからんのに、それぞれの人間と親しくなっては、後がつらいぞ」

「……かもしれん」

 薫子は北西を見たまま、言う。

「とはいえ、つらさを避けるために人間との関わりを避けて何千年も生きて何になる? それでは生きているとも言えないではないか。そう思ったからこそ、君も人間と関わってきたんだろう」

「……否定はせん。妾は行き場のない情を『英国』という人間たちの群れに向けているのかもしれん。それがいいことなのかどうかは知らぬが」

 薫子はその言葉をただ聞いていた。プリシラがこれまで以上に自分の内心を明かしていることに気づいたが、それは薫子が徐々に人間の側からプリシラの側へ、うつっていることを示しているのかも知れなかった。

(……気をつけねばな……子供に情がうつらないのは戦争中だからだと思っていたが、私の感情が徐々に摩耗しているからかもしれない)

 しかしそこで思い悩んではこれからの戦いで負ける。彼女は強引に意識を戦争に戻した。

「――胎盤の件、報告が来た」

 唐突に話題を変える。

「どうだった」

「神崎薫子、そして栗花落桜子、二名の吸血鬼の胎盤の血液を調査した結果、そこに存在すると思われるウィルスが作り出す酵素に確かに違いが見られることが分かった。サルに投与したところ、特定の波長の音波に反応して従順になり、飼育員の指示にも従いやすくなったそうだ」

「それで」

「……私と栗花落中佐の音声も調べてもらった。人間には一般に聞こえない波長の音波が混じるようになっていた。この音波の波長は、従順になる波長の音波と一致していたが、吸血鬼ごとには異なっていた」

「――なるほど。それで『命令に従わせる』……か。お主らのことだ、作戦案も考えているんだろう?」

「――無論。ただし我々は、我が方からこのウィルスを戦争に使うつもりはない。だが敵のウィルスに対抗するのはやむを得ないと思っている。兵士が亡者にされたら、敵の兵士にされる。それだけは避けねばならん。よって、やむを得ない場合には自決代わりにこの血液を注射させることにした。これで、少なくとも一方的にアーデルハイドの命令に従うことはないだろう。私の命令にも従うようになる。もうひとつは、銀弾だ。亡者に囲まれたときのために、注射ではなく弾丸に血液から抽出したウィルスを培養し、仕込んだものだ。こうした生化学的な物質を込めるには鉄や鉛よりも銀がいいようだ」

 薫子はじっとプリシラを見た。

「希望するなら英軍にも配るが、どうする」

「……もらっておく」

 それからため息をついた。

「しまったな、私も妊娠しておくべきだった。これを使っても、お主がいないと効果がない」

「それでいいではないか。英軍兵が日本軍士官に従うのは不服か」

「今や同盟国であろうし、そこまで不服ではない。しかし英軍兵はみな私の娘だと思っている。それがお主の命に従うのは気にいらん」

「妊娠しておくべき――といったが、ぶしつけな話だが、君には憎からず思っている殿方はいないのか」

「――ふ。いたよ。だがみな死んだ。ずっと前に」

「……今から作るのはもう無理なのか」

 プリシラは考える目をした。それから首を振る。

「もう無理だな……。みな子供にしか見えんのだ。お主が男であったら、あるいはとは思うが」

「――その好意は、ありがたく受け取っておく」

「好意ではない。強いて言えば、そうだな、同類であるということだ」

 プリシラはそれだけ言って、つと立ち上がり、部屋を出て行った。心なしか、彼女を纏っていた威厳ある雰囲気が、やや弱まっているように感じられた。


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