第8節「長春にて」

 イルクーツクに対する日米英モンゴル連合軍の侵攻は記録的な大敗に終わり、ドイツ軍は逆にモンゴルに侵攻し、これを占領した。更にドイツ軍は、南京を拠点とする戴笠政権と連携し、中国内陸部を南北から挟撃、毛沢東政権を崩壊させた。

 日米英は上海の汪兆銘政権を中国の正当政府と宣言、満州―中国沿岸部―仏印のラインでかろうじてドイツ軍の勢力を押しとどめた。

 北アフリカではロンメルに代わりドイツ軍最高司令部の直接指揮の下、日本軍の守るエジプトおよびアルジェリア方面にドイツ軍は侵攻し、新連合軍はスエズおよびジブラルタルに防衛戦を築いてかろうじて防衛している状況であった。

 ドイツ軍はベーリング海峡を越えてアラスカにも侵攻、ダッチハーバーの亡命ソ連政府を包囲した。

 それらの侵攻作戦の各地で、敵味方が亡者と化し、戦線が維持できなくなる事態が頻発していた。

 世界は、ドイツ軍の勢力に滅ぼされようとしていた。

 満州国長春。

 今やこの地は、ダッチハーバー、上海、仏印と並び、新たなる「東部戦線」の前線の一角を占めていた。

「……何かの箍が外れたようだな」

 長春駅前のホテルに置かれた日満米英合同司令部の一角で、プリシラが茶を一口飲む。

「アーデルハイドのことか。確かにな。お主が抑制的に使っていたのとは対照的だ。世界はスペイン風邪とならび、この新たな疫病を恐れている。それが人を狂わせ、なぜかドイツ軍に有利な行動ばかり取ることに関しては、特に恐れている」

「そうだな……」

 プリシラはつぶやいた。

「教えろ、プリシラ!」

 薫子はテーブルを拳で叩く。

「なぜだ! なぜ奴は亡者を操れる? そんなことができるとは聞いていないぞ!」

「言っていないからな」

「知っているのか」

「……一五〇〇年前。あの女は言った。胎盤は厳重に処理しろと。決して人に近づけるなと。胎盤の血には、本来は子孫に継承させるはずだった力が満ちている……それを人間に与えたら、誰しもが妾の『子供』になる……言うことを聞かせることができる……と」

「――それは……」

「おそらく、我々『高貴なるもの』あるいは『吸血鬼』の胎盤の血には、体の他の箇所とは異なる種類のウィルスがあるのであろう。それを人に伝染させると、ある者の声は聞くようになる……。研究させるべきかもしれんな」

「胎盤を?」

 プリシラは制服の胸ポケットから、小さな小箱を取り出した。

「妾は、子を産むこともある、と前に言ったな。前に産んだのは一〇〇年前――そのときの胎盤を、試みに取っておいた。やつの言うことがどうしても気になったのでな。王立アカデミーに分析させたが、そのときには何も結果が得られなかった。しかし今ならば、何か得られるかもしれん。あるいは……新鮮な血でなければ、何も分からんかもしれんが」

「そのときには、私か君のいずれかが、子を産むべきだと?」

「あるいは栗花落桜子がな」

 薫子は唇を引き結んだ。

「私が産む。栗花落少佐には既に充分に過酷な運命を負わせた。この上何かを要求する立場に私はない。プリシラ、君になら何かを要求することは可能かもしれないが、しかしこれは私がもたらしたことだと思っている。キリンディニで君に講和を要求した。アーバーダーンを攻めた。エジプトを攻めた。その結果がこれだ。全ては、私が日本帝国を存続させたいと願ったがゆえの結果だ。結果は引き受けよう」

 プリシラはじっと薫子を見た。

「いいのか?」

薫子は微笑む。

「本来は、このような目的で産むようなものではなかったはずなのだがな」

「――結果によっては、スペイン風邪解決の糸口も分かるかもしれんな」

 プリシラが意外なことを言う。

「どういう意味だ」

「男児が生まれない、というのは、父親の影響だと思われがちだが、父親から母親に感染したスペイン風邪のウィルスが、胎盤に作用した結果、男児が流産するのだという研究結果を英国は得ている。つまり胎盤が理由だ。

あのような甚大な結果をもたらすウィルスが、有史以来全く出現せず、あの世界大戦で急に出現したのを私は奇妙に思っていた。本来はただの風邪だったのではないか。何者かの思惑であのような奇妙な結果を伴って現れたのではないか、とな」

「……それもアーデルハイドの差し金だと言うのか」

 プリシラは首を振る。

「分からん」

 それから急に立ち上がり、薫子に迫り、壁際まで追い詰めた。

「――一〇〇年は我慢しよう。だがその後は二〇〇年を要求する」

「……どういう意味だ」

「お主があの副官を意外に気に入っているのが気に入らん。この妾がともに暮らしてやろうとしているのに、他の人間のほうに興味を持つなど! それが一〇〇年増やした理由だ。別に研究のためであろうと世継ぎのためであろうと好きにすればいいが、情が移った分だけその後は必ず寂しくなるのだからな。真の心のつながりは妾との間で築く方が良いぞ」

 薫子は笑った。

「はっは。それは何だ、嫉妬というやつか? 吸血姫、プリシラ・ブラッドフォード卿にそのような人間らしい感情があったとは、新たな発見だな」

 プリシラはびりり、と薫子の制服をやぶり、首筋を露出させた。

「あまり不敬な口をきくと亡者に堕とすぞ」

「……好きにすればいい。だが、私が義務を果たしてからだ。部下と、祖国と、そして世界に対してのな」

「……ふん。堅物め」

 プリシラは薫子の首筋を噛むことはせず、そっと唇をつけるだけで薫子を解放した。

 薫子は破られた制服のまま、立ち去っていくプリシラの後ろ姿、その金髪をじっと見つめる。

 そのまま、彼女は考え事をしていた。

(さて……千登勢大尉になんと切り出すか。――祝言をあげるまえに寝るなど、古風な彼にはきっと受け入れられるまいが……)


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