第4節「ウランバートルにて」

 一九四二年八月六日。

 ドイツ軍がモスクワを占領し、ソ連政府が崩壊してから四日後。ソ連亡命政府がアラスカ・ダッチハーバーに成立した。ドイツ軍はモスクワを越えて進撃すると同時に、ソ連邦構成国の一斉反乱を主導、ソ連邦全体が即座に瓦解したからだ。

 スターリンの全体主義的独裁体制により疲弊しきっていたソ連邦構成国はドイツが大した工作をせずとも反乱を決意したと、薫子は報告を受けている。

 その後の世界情勢の展開は早かった。

 米国は日英講和条約第五条に基づき、即座に日本との講和を打診し、日本もそれを受けて講和交渉を開始した。この姿勢は独伊の態度硬化を招き、両国は一致して日本との枢軸同盟の解消を宣言、日本が約束していた「日本軍占領地の枢軸国との貿易制限」については、この情勢下で特に日本の手を煩わせることもなく、新枢軸国の方から断ってきた。中東の石油やマレーのゴム、南アフリカのクロムなどは戦争継続に必要な資源のはずであったが、モスクワ陥落までの一ヶ月の間に多量に買い付け、今後数年にわたるであろう戦争を継続するだけの資源を蓄えたということだろう。

 今後数年の戦争――そう。日米英と独伊の決戦である。

 第二次上海事変における手痛い敗北以降、日本軍が事実上撤退していた中国戦線でも変化が起った。ドイツは中華民国――南京政府に影響力を行使、ファッショ団体「藍衣社」をその長である戴笠のもとに再結成させ、米英派となっていた蒋介石を暗殺、再度独中合作を成立させ、大陸から日本を圧迫した。

 一方の日米英、およびソ連亡命政府は妥協の上、汪兆銘・毛沢東を合作させ対抗した。



 そして、一九四二年九月一日。

 神崎薫子は外蒙・ウランバートルにいた。

 外蒙は旧来、ソ連の影響下にあったが、ソ連崩壊後は満州国から日本軍部隊が、西安から毛沢東の八路軍が進撃、ドイツ軍の進撃に備え進駐している状態であった。そこに増援として米英の正規軍や元祖フライングタイガースが増援に到来。今や、外蒙古と旧ソ連の国境は、ドーバー戦線やリビア攻囲戦とともに新連合と新枢軸が対峙する戦線の一つとなっていた。

 トーラ川河畔に所在するウランバートルは、トーラ川を挟む高台以外の場所は全て平地であり、満州あるいは中国内陸部から進撃してきた多量の戦車、郊外の飛行場は戦闘機や爆撃機で満ちていた。

 その飛行場のひとつを視察がてら訪れた薫子は、だだっ広い草原の向こうに沈む夕日を見遣り、嘆息した。

「ようやく、ここまで来たな」

「中佐殿の想定通り、ですか」

 傍らの玲次が言う。

 アーバーダーン、マルタ、ヤッファなどの作戦成功を重ね、日英講和に貢献した功績大により、薫子は昇進し中佐となっていた。「大佐への二階級特進を推薦したが、前例がないので無理だった、すまない。次に早めに引き上げる」とは紘羽中将の言である。

「……いや、想定通りではない。ドイツがここまで早期にソ連を倒すとは想定外だ。独ソ戦が膠着状態になっているうちに対米講和を実現するつもりだった。ドイツとソ連が痛み分けになり、どちらも力を失ったところで今次世界大戦を終わらせることができればと思っていたのだが」

 薫子は嘆息した。

「――やはり、アーデルハイド・ヴェンツェル中佐が蠢動したと」

「……おそらくな。手際が良すぎる。彼女が吸血鬼であることがバレた以上、もはや隠すこともないと思ったんだろう。各地で、ソ連部隊が亡者と化してあっという間に殲滅された、と推定される状況が報告されている」

 薫子は立ち止まった。沈む夕日をじっと見つめる。その夕日は、四月にキリンディニ軍港でみたジャングルに沈む夕日とは異なり、草原特有の茫漠たる光景と合わさって、遙かに巨大なものに見えた。

(あのとき心配していたのは我が日本帝国の命運だが、今はそれよりも巨大なものが沈むかもしれない懸念を私は抱いている)

「アーデルハイドは世界を支配するつもりでしょうか」

「その可能性はあるな。我々――つまり私やプリシラが対抗して吸血鬼の力を使わなければ、そうなる可能性が高い。人々を亡者とすることの罪と、人類滅亡を傍観する罪、その両方が私の肩に掛かっているようだ。いずれかを選ばねばならんのかもしれん。――いや、私はヤッファでユダヤ人たちを助けたとき、既に選んでいる」

「人を亡者にする罪を背負うと」

「そうだ」

 断言する。握る彼女の拳は震えていた。アーバーダーン、そしてヤッファで自分が作った地獄の光景が脳裏に浮かぶ。

 玲次が薫子の両肩に手を乗せた。

「中佐殿。P作戦検討責任者として進言いたします。敵がPウィルスを使用している以上、我が方もPウィルスを使用することは不可避です。私の責任においてこの作戦は立案いたします」

「千登勢少佐……」

 薫子は後ろの玲次を見やった。

「私も背負いますよ。私は中佐殿の副官です。その罪を背負うことが不要となれば全力でお止めいたしますが、私も必要と痛感しています。ならば中佐殿お一人で背負わせることいたしません」

 薫子は玲次に向き直った。

「――礼を言う。部下に気を遣わせてしまったことを本来は恥じるべきだが、今の私にはその余裕もない。千登勢少佐、君の忠誠にどう報いて良いか私には分からぬが、既に人生のうち一〇〇年はプリシラに与えることを約束してしまった。君にも何年かを与えるべきなんだろうな」

「光栄です。一ヶ月いただければ、私には過分ですが――」

「君は謙遜家だ。プリシラはブリタンニアの逸話だけで一〇〇年を要求したぞ。君もそれぐらい言え」

「……しかしそれでは私の一生を超えてしまいます」

「では残りの期間は君の墓前を弔い続けよう。今後一〇〇年間は君のものだ。私が何年生きるのかは知らんが、プリシラにはその次の一〇〇年を与えれば充分だろう」

 そこで薫子は自嘲しつつ微笑んだ。

「いや、既に人間ではない私の人生を与えられてもしょうがないか」

「いえ。そんなことはございません」

 ふ、と微笑する。

 この一ヶ月間、緊張と罪の意識で身がすくむ思いだったが、玲次との会話で少なくとも人間らしい時間を過ごせた気がした。

 そのとき。

「あなたが神崎薫子ね! 探したわよ!」

 がさつな呼び声がした。

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